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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

残業と『学び合い』

 日経ビジネスonlineに、「よのなか科」の藤原和博先生と、「教えない授業」の山本崇雄先生の対談が連載されているので、興味深く読んでいる。最新のテーマは、「学校が『残業するサラリーマン』を育てている?」というもので、旧態依然とした学校制度が、悪い意味での日本的な働き方を助長しているのではないか、という内容だった。

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 最近よく考えるのが、毎日生徒に宿題を出す=毎日生徒に残業を強いている、のではないだろうかということだ。長時間労働サービス残業が問題となって久しいが、生徒にとっての退勤時間=下校時間であるならば、生徒にとっての残業=居残り勉強や宿題、ということになりはしないだろうか。

 例えば、国語の宿題としてよく「家で漢字帳に新出漢字を1ページ書く」というものがある。おそらく目的は「新出漢字を正しく素速く丁寧に書けるようになるため」であろう。ということは、この宿題が生徒にとって有意義なものであるためには、

  1. 「新出漢字を正しく素速く丁寧に書け」ないという現状がある
  2. その目的を達成するために、「漢字帳に新出漢字を1ページ書く」ことが有効な方策である
  3. その目的を達成するためには、授業時間だけでは困難である
  4. そして、宿題の必要性を生徒自身が感じている

といった条件を全て満たしている必要がある。

 大人が残業をする立場に置き換えてみると分かりやすい。

  1. もう既にできることを
  2. 目的に合っていないよく分からない方策で
  3. 勤務時間内に終わらせられるにも関わらず
  4. 自分自身が必要だと思っていないのに

上司から毎日「残業しろ」と強制されたらどう思うか、という話だ。残業(宿題)というものは、「必要な人が」「必要なことを」「必要なときに」「必要な分だけ」すべきものではないだろうか。宿題の目的は「家庭学習の習慣を身に付けるため」という考え方もあるだろうが、だからといって盲目的にやらせることがベストではないだろう。

 

 今実践している小単元丸ごとの『学び合い』では、「この単元は残り○時間で全員達成することが目標です。もし間に合いそうにないな、と思ったら各自が必要に応じて残業してください」と伝えている。あくまでも目標達成のために最終手段として必要ならばどうぞ、というスタンスだ。

 また、全員に課している宿題に関しては、年度初めの最初の授業で「内容」「回数」「提出日」を全て伝えてしまっている。具体的には、「中間・期末テストの試験範囲のワークを」「年5回」「中間・期末テストが行われる日の帰りの会」提出するというものだ。このワークは、生徒には授業中に課題の確かめとしてどんどん取り組むことを推奨しているので、実際に宿題として家でやることは多くない。実際、このワークから中間・期末テストの問題が多く出題されるので、言われなくても生徒は必要性を感じて取り組んでいる。

 

 こういった部分が「学校は変われない」とか「教師の常識は世間の非常識」とか言われる所以ではないかと感じずにはいられない。

 

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

なぜ「教えない授業」が学力を伸ばすのか

 

 

皆勤賞と『学び合い』

 月130時間の残業などが原因で過労死と認定された電通の女性社員のニュースについて、ネット上でたくさんの言説が飛び交っている。

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 自分のTwitterのTLは教育関係者が多いため、「こういったブラックな働き方をしてしまうのは、皆勤賞を美徳とする日本の学校文化にも原因があるのではないか」という意見が散見される。

 

  確かに、この考え方には一理ある。しかし同時に、仮に今すぐ皆勤賞という学校文化をなくしたところで、大きな変化はないと思う。卒業するときにもらえる賞状1枚が、そこまでの影響力を持つとは考えにくい。なぜなら、学校現場で日常的に行われ、学校教育の大部分を占めている授業そのものが、「全員欠かさずに受ける」ことを前提に行われているからだ。

 

 自分が小さいときのことを思い返してみると、体調が悪いなどの理由で休むときに最初に脳裏をよぎるのは、「自分がいない間に授業が進んでしまう」という不安だった(人によっては「皆勤賞を逃した!」と思うかも知れないが、全員ではないだろうし、最初は気にしていても2日目からはどうでもよくなる)。当然ながら(学級閉鎖などの緊急の場合は別にして)、欠席者の存在などお構いなしに教室での日々の授業は進んでいく。教師は表向き「休んだら友達にノート借りたり教えてもらったりしろよ」とは言うが、複数の教科について限られた時間の中で実際に行うことは極めて難しい。欠席が長引けば尚更である。そうした(学校文化と言うよりもむしろ)学校制度そのものが、「休むことは悪だ」という概念形成に与しているように思えてならないのだ。

 

 今実践している小単元丸ごとの『学び合い』では、小単元の内容を数時間かけて全員が理解することを課題としている。つまり、その数時間の中での学ぶペースや方法は個人に任せている。先日、その数時間の最初の日に欠席した生徒が複数いたクラスでは、進度が速い生徒がちょっと離れた机に欠席した生徒を集めて、遅れた1時間を取り戻そうとプチ授業を行っていた。この光景を眺めながら、「この1時間ではこれを学ぶ、そして次の1時間ではこれを学ぶ」という教師のペースに全員が合わせなければならないから、生徒は「1時間たりとも休んではならない」という発想に至るのではないかと考えた。生徒に任せ、生徒の自由度を高めることにより、随分と「休みやすくなる」のではないだろうか。

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 教育哲学者の苫野一徳先生は著書「教育の力」の中で、

「よい」学びを生み出すための具体的方策として、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」が有効である

と主張されているが、この「個別化」「協同化」「プロジェクト化」を学校現場で進めていくことは、今後の日本の労働の在り方にもつながっていくのではないかと考えた。

ganlog.hatenablog.com

 

実験で何を学ぶか

 年度も後半に入り、どの学年の授業も小単元丸ごとの『学び合い』に移行している。1年生は「水溶液の性質」を7時間で全員説明できるように理解する、というのを課題にして取り組んでいる(これまでの小単元では、ガスバーナーの操作や水素の発生などがあったため、安全上の配慮から1~2時間単位の『学び合い』を続けていた)。この「水溶液の性質」の小単元は、まずコーヒーシュガーとデンプンを水に溶かしてろ過をするという実験からスタートする。実際に、全ての班が1時間目にこの実験に取り組んだ。

 この実験は、物質の溶解についての概念形成のためには非常に重要な意味を持つが、作業としては如何せん「地味」である(生徒にとっても教師にとっても)。したがって、これまでは実験の考察(モデル化など)には時間をかけてきたが、実験そのものにはあまり時間をかけてこなかった。また、準備物や操作は何かと煩雑なので、ビーカーなどの器具や材料をあらかじめ教師側で準備をしておき、生徒がスムーズに実験できるように配慮してきたという過去がある。

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 しかし、『学び合い』で生徒に方法を任せてみると、実験そのものの中に数々の学びが含まれていることに気が付いた。

  • 大きなビーカーで多量の水で実験すべきか、小さなビーカーで少量の水で実験すべきか?←定量的ではなく定性的な実験なので(実際に教科書に量の指定はない)、現象を確認できるだけの最小限の水で実験した方が、廃液が少なくて済む上、ろ過の時間短縮にもなる。
  • 加えるコーヒーシュガーの量はどうするか?←ただの砂糖ではなくコーヒーシュガーを使う理由は、溶解の様子を色の変化によって視覚化するため。したがって、その色の変化が十分わかる程度の量を溶かす。かといって、加えすぎると溶かすのに時間がかかったり、全て溶けない可能性がある(小学校での既習事項の活用)。
  • 教科書には「一晩置いた後の変化を観察する」とあるが、翌日が休日などで理科の授業がない場合はどうするか?←一晩置く理由は、数分~数十分オーダーではなく、数時間~数十時間オーダーでの変化を見るため。であれば、一晩以上置いても結果に差はないことが予想される。

などなど、枚挙に暇がない。これまでの授業では、これらの「?」は生徒のスムーズな活動を阻害するものと考え、あらかじめ教師側で準備をしたり先回りして手を打ったりしていた。しかし、これらの「?」に対する答えは全て、科学的事象についての本質的な理解につながるものであることに今回気付かされた。大切なのは実験をスムーズに行うことではなく、こうした「?」に1つ1つきちんと向き合い、省察や対話を重ねていくことで、自らの科学観や自然観を更新していくことではないか。これまで自分は、そういった機会を生徒から奪っていたのかも知れない。

 これらの「?」にきちんと向き合わせるためには、

  • 生徒が方法を自由に選べるようなリソースを充実させること(環境的余裕)
  • 省察や対話を深めたり、失敗したりできるための十分な時間が確保されていること(時間的余裕)
  • そんな生徒の活動に教師がイライラしないこと(精神的余裕)

などの「余裕」が不可欠ではないか、と考えた。

『学び合い』指導案

 校内研究会での代表授業が迫り、そのための指導案作りに着手している。日々の授業同様、『学び合い』の授業を見ていただこうと思ったのだが、いざ『学び合い』全開の指導案を書こうと思うと、どのように書けばいいのか悩んでしまった。いろんなブログなどを読むと、あらぬ誤解を避けるためか、そういった授業では意図的に『学び合い』をしないという判断を下される先生方も多いようだ。実際に、県外の『学び合い』実践者の先生にメールでご相談したところ、

間違っても、『学び合い』をしよう、とか、『学び合い』の良さを見せよう!などの邪念(とあえて表現します)があると、危険かと思います。

 というご意見をいただき、さらに考え込んでしまった。

 

 確かに、『学び合い』ありきの自己満足に陥ってしまってはいけないことは言うまでもない。しかし、今自分が『学び合い』を実践している大きな理由の1つとして、校内研究会のような特別なときにだけ余所行きの授業をするのではなく、日常的にアクティブ・ラーニングを続けたいという思いがあったからだ。そして、実際に今年は4月からフルの『学び合い』を続けているという中で、あえてやり方を変える方がナンセンスである。

 そう考えると、『学び合い』を一切意識しなくても、子どもたちを信じ、多様な学びを保証し、全員が学習課題を達成しようとしたならば、自然と『学び合い』の授業形態に着地するのだということに気が付いた。その思いが指導案の中に表現されているならば、特に『学び合い』という言葉をわざわざ使わなくても済むのだ。

 この点に気付けたことによって、変に力みすぎることなく『学び合い』の指導案を書くことができた。いざ蓋を開けてみると、パッと見は確かに一斉授業と一線を画する部分が多いかも知れないが、自分はこういう考え方に基づいて授業をしているということが自信を持って言えそうである。『学び合い』の考え方がいつの間にか血肉化していたということだろうか。

 

 今回の校内研究会で教科指導にいらっしゃる先生が、昨年度までの子どもたちの学年主任だったという縁もある。彼らの成長を見ていただくという意味でも、これ以上ない機会であると思うとワクワクせずにはいられない。

 

動画に奪われる教師の役割

 行事が一段落し、この1週間は職員同士の授業参観期間だった。理科はもちろん、自分の担任クラスや担当学年の授業はこれまでも日常的に参観させてもらっていたので、今日は他学年かつ他教科の授業を参観させていただいた。

 中1の国語(書写)の授業だったのだが、お手本の書き方を動画で流しているのを見て、なるほど書写だとこういうICTの使い方があるのか、ということに気付かされた。確かに国語の先生でも書写は自信がないという方はいらっしゃるだろうし、小学校なら全ての先生が書写を教える可能性がある。動画なら優れたお手本を繰り返し見せることができ、その間先生の手も空くなど、教師側にとって数多くのメリットがある。

 他にも、特に実技教科においては、こうした動画が絶大な力を発揮することは容易に想像できる。体育の授業であれば、跳び箱などの模範演技を見せることができるし、理科でも正しい実験器具の使い方を見せたりすることは少なくない。部活動だって、例えば運動部ならば、強豪校や有名選手の試合やフォームをビデオやDVDで観たりすることは昔からやってきたはずだ。生徒にとっても、優れた実技を繰り返し見ることができるのだから、メリットは大きいだろう。

 

 では、もし生徒が「先生、ネットにアップされている『走れメロス』の講義動画がとてもわかりやすいらしいので、書写のときと同じように、授業でその動画を流してください」と言ってきたら、我々は一体どうするのだろうか。

 教師の立場としては「実技を見せるのと教えるのは違うのだ」と言いたいところだが、その主張が現代の中学生を納得させることができるとは到底思えない。事実、過去には教師の役割であった「実技の模範を示す」仕事が、特に抵抗もなく(むしろ教師側も歓迎する形で)動画に取って代わられた今、教師にとっての本丸であるはずの「教える」仕事も、動画によって奪われるのは時間の問題ではないか。両者の間に明確なボーダーラインが存在しない以上、「実技の動画は流すけど講義の動画はダメ」と言えるだけの理論武装は極めて難しいだろう。生徒(もしくは保護者)が実際にその願望を口にする日はそう遠くないと思う(というか、もう来ているのかも)。

 

 そう考えると、昨今のアクティブ・ラーニングの趨勢は、流行り廃りなどというレベルではなく、教師という仕事がこれからどこに向かっていくのか、さらには教師という仕事が生き残れるのか、というレベルで議論すべきだと感じずにはいられない。

「自分の席で黙々と課題に取り組む」ことの意義と弊害

 学校という場所では、プリント学習などの課題をする場合、「自分の席で黙々と課題に取り組む」ことが良しとされることが多い。特に、中学校や高校での入試対策期の学習においてはより顕著である。

 

 「入試は独りで受けるんだから、勉強も独りで集中してすべき」という考え方の人がいることは十分に理解できる。であれば、「入試は独りで受けるんだから、協力できるときは仲間と協力すべき」という考え方の人がいることも理解して欲しい、というだけのことだ。どちらも一理あるのなら、どちらの方法が良いかは生徒自身が選べばいいのではないか。

 確かに、「立ち歩きや会話を許せば、遊んだり無駄口をしたりする生徒が出る」という懸念はあるし、実際にそういった生徒が現れる可能性は高い。この考え方こそが、強制的に自席で静かに取り組ませるという方法を選択させるのであろう。

 では、そういった生徒は「立ち歩きや会話を許せば、遊んだり無駄口をしたりする」ことを、いつになったらしなくなるのか。適切な振る舞い方を、いつになったら身につけるのか。今できないのなら、今できるようにするのが我々の仕事ではないのか。

 自転車に乗れるようになるには実際に自転車に乗ってみるしかないのと同様に、そういった場面での適切な振る舞い方を身につけるには、「そういった場面」を実際に経験する以外にはないはずである。教師側から一方的に方法を指定することは、その学びの機会を奪っている、安易な方法に思えてならない。

生徒ができること、教師しかできないこと

 2週間に渡る学校祭期間が終わった。今年は生徒会の主担当という立場で、文化祭全体に係る仕事がたくさんあったため、夏休みからずっと気を張っていた状態だった。毎年こうした行事が終わっていくのは名残惜しいのだが、今年は生徒会が無事終わるのかが心配で「早く終わって欲しい」と思わずにはいられなかった。

 

 1週間前の体育祭では総合優勝を始めいくつかの賞を獲得することができたが、文化祭では無冠で終わった。特に今年は合唱コンクールの練習において、教師側からの口出しを極力せず、あくまでも「見守る」「提案する」だけに留めることを意識したのだが、イメージしていたゴールにまで今一歩届かなかった感がある(あと1週間あれば…という印象)。特に、これまでは男声のパート練習を中心に具体的な指導をしてきたが、今年は生徒からの要請があったときのみ、数えられる回数程度行っただけに留めた。合唱全体への指示も同様であった。その結果、これまでであれば教師が介入していた課題を生徒が自ら解決しようとする姿が増え、部分的な成果はあったと感じている。

 昨日の打ち上げで、合唱コンクールの最優秀賞に輝いたクラスの担任の先生とじっくり話す機会があった(その先生のクラスは前任校から合唱コンクールを6連覇されているらしい)。その先生も、傍目にはあまり生徒に直接的な指導はしていない印象があったのだが、生徒に対しての語りは常に欠かさなかったという。音楽的な技術の向上は生徒同士で可能であるが、一番大切なことを語るのは教師しかできない。この考え方は、『学び合い』授業における「語り」と同じである。「生徒主体の活動」「勝敗にこだわらない指導」というと聞こえはいいが、そのために自分は教師側が本当にしなければならないことまで放棄してはいなかったか。この視点から、今一度自分の教師としての在り方を見つめ直していかなければならないと痛感した学校祭だった。