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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

「青少年のための科学の祭典」に出展して 2年目

 昨年に引き続き、地元の科学館主催の「青少年のための科学の祭典」地方大会に出展した。昨年は同僚の若い先生に協力をお願いしたが、今年は同業者である妻(現在は産休中)に協力をお願いすればいいのだ、ということに気が付いた。

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 ネタは「発泡入浴剤をつくろう」。重曹クエン酸+食塩に、つなぎとして蜂蜜を加えて混ぜ、固形の入浴剤を作り、その後入浴剤の欠片を手のひらの上に置いて、水を加えて吸熱反応を体感するというもの。春頃に同僚の先生が、2年生の理科の授業で、吸熱反応として炭酸水素ナトリウム(重曹)+クエン酸の実験をしていたことに着想を得た。昨年行った「つまめる水をつくろう」で経験したように、持って帰れるお土産のある実験の方がウケがいいと考えたことも大きかった。

 決して難しい実験ではないので、予算の許す限りの材料を用意するぐらいしかせずに当日を迎えた(Amazon重曹10kg+クエン酸5kgも買ってしまい「一生かかっても使い切れないな」ぐらいに考えていた)。

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 しかし、私と妻の2人の他に、男子高校生ボランティアの方も2名参加していただいたお陰で、いざ始めてみると回転率が異常に高く、午前中だけで大量の重曹クエン酸を使い切りそうになってしまった。慌てて近くのドラッグストアの重曹クエン酸を買い占め、何とか終了時間30分前までブースを続けることができた。結局重曹だけでも15kg以上を使ったことになり、必要な分量についての見通しが全く立っていなかったことになる。お土産を持って帰ってもらうことはいいが、費用対効果を考えなければならないこと痛感した。

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 今回は長男を実家に預け、妻と2人で出展したが、子供が大きくなったら一緒に家族として出展する、というのは面白そうだ。子供だからと言ってただイベントにお客様として参加するのではなく、運営側としての体験をさせた方がより教育的効果が高いように思う。その日が来るのが楽しみだ。

「資格」とは言うけれど

 昨年度に引き続き、3年生という卒業学年を担任しているので、いろんな高校の説明会に参加したり、逆に高校の先生に来ていただいてお話を聴く機会が多い。その中で、ある商業系の学科を有する学校の先生がおっしゃっていたお話が印象的だった。

商業系の学科がある高校の先生は、とにかく「資格」「資格」という実績を強調するけれど、それらの資格は全て今後は人工知能に取って代わられていく。だから資格ばっかり頑張っても仕方がない。 

  商業系に進学を希望する生徒の志望動機として、「資格をたくさん取得して就職に活かしたいから」というのは古来からの常套句であり、実際に過去の卒業生にはそのような指導をしてきたが、もはや旧時代的なものになりつつあるのかも知れない。さらにその高校の先生は、「ビジネスに関わる人間に必要なコミュニケーション能力の育成にも力を入れている」とおっしゃっており、商業系の学科ならではのアクティブ・ラーニングの解釈なんだろうなと考えた。

 大学入試制度改革だけでなく、日本の労働の在り方も変わっていく中で、待ったなしの改革を迫られている高校に対して、義務制の学校の方が「まだ昔のままでいられる」という慣性が強いような気がしてならない。

異学年『学び合い』の可能性を見た

 2学期途中から、担当している1年生と3年生共に、小単元丸ごとの『学び合い』に移行している。3年生は受験の足音が近付くにつれて学びへの意識が高まっている一方で、1年生はいまいち停滞気味。学びに向かおうとする空気の希薄さを感じ、当然なかなか結果にもつながらない。中1の後半というのは何かと難しい時期…と言ってしまえばそれまでだが、何とかカンフル剤を打ちたいと思い、3年生の授業の様子を動画で撮影し、1年生に見せることにした。

 まず3年生に事情を説明し、「という訳で1年生が『自分たちも頑張らなきゃ!』と思うような、さすが3年生!という姿を見せて欲しい」と発破をかけた後に動画を撮影。その後、その動画を1年生の授業で紹介したところ、初めて見る他クラスの『学び合い』の様子に興味津々で食い入るように見つめていた。その後感想を書く時間を設け、クラス全体で共有した。 

  •  「はい、どうぞ」の直後、ほとんどの人が席を立って動いていた

  • 男女関係なく教え合っていた
  • ホワイトボードや黒板など、いろいろなものを使っていた
  • 無駄話をしている人がいなかった
  • 一人も見捨てていなかった

こういった感想と共に、「真似しようと思った」「自分たちでもできると思った」といった自分たちと重ね合わせた感想も紹介した。そして、その後の授業では、前回までの授業とは明らかに違う、活き活きと学ぶ姿が見られた。授業の最後には、「最初は『外見』だけかもしれないが、まず外見から入って最終的には『中身』まで3年生に追いつくことを期待しています」と締めくくった。

 

 せっかくの感想なので、次は3年生の授業でも1年生の書いた感想を紹介したところ、生徒から「褒めすぎ!」という反応が返ってきた。「確かに、動画では授業の様子の良い部分しか伝わらないから…君たち同様、私だってこのクラスの『学び合い』が完璧!とは思っていない。でも、実際1年生は君たちの様子から何かを感じて頑張ろうと思ったのだから、成果はあったし、それはこのクラスのお陰です。この1年生の書いてくれた感想通りのクラスを目指しましょう」と伝えた。

 

 これまで異学年にまたがるような合同『学び合い』は、(場所的な制約などもあって)自分には縁がないものだと思っていたが、こうして間接的にお互いの学ぶ様子を伝え合うだけでも、大きな効果があるのだということに気付かされた。近い将来、1・3年生合同授業に挑戦してみようと思う。

教育会セミナー3人会に参加して

 部活のない日曜日。長男を実家に預け、妻と共に大阪へ石川晋先生、金大竜先生、福島哲也先生のセミナーに参加。「教室の今を考える」というテーマで、3人の先生方から授業の在り方や学級経営についての実践をお聞きし、それについて参加者が意見交換をするという会だった。

kokucheese.com

 

 金先生福島先生ご両人の実践は過去にお聞きしたことがあったのだが、石川先生の「教室から離れて」というテーマでのESD(持続可能な開発のための教育)のご提案は、一見するととても意外な切り口だった。こういったセミナーでは基本的に「変わるために教師が何をするか」という文脈で語られることがほとんどだが、ESDの考え方は言わば「変わるために教師が何をしないか」という逆説的な切り口に思えたからだ。しかし、石川先生のご著書「学校でしなやかに生きるということ」にも書かれている通り、この考え方こそ石川先生が紛れもなく「今教室で大切にしていること」に他ならないのだろう、と考えるとしっくり来る。

 ESDのためには、まず我々教師の仕事がsustainable(持続可能)でないといけない、という至極真っ当なご提案で、今自分がいろいろと考えを巡らせている部分との親和性が非常に高く、まさに今現在の石川先生からしかお聞きすることができない貴重なお話を聞くことができた。奇しくも電通の女性社員の一件により、ワーク・ライフ・バランスについての議論が活発になってきているという時代の追い風の中で、我々教師は子どもたちに最も身近な「労働者のモデル」としての機能を果たさなければならない、ということを改めて考えさせられた。その部分を出発点にすることなしに、授業の在り方や学級経営について語るべきではないのかも知れない、とすら感じた。

 

 最後の鼎談では、ESDの考え方に絡めて「若い頃の”ガンバリズム期”は必要か」「協同学習や『学び合い』のためには一斉授業のテクニックも必要か」という話題になった。確かにそういった一時的な経験からの反動形成のような形で今のスタイルに移行した、という方々のお話をよくお聞きするが(自分自身も含めて)、言わば跳び箱を跳ぶときのロイター板みたいなもので、なかったらないで特に問題がないように思う。金先生が「協同ネイティブ世代」(換言すればいわゆる「ゆとり世代」になるのか)の先生の登場が楽しみだとおっしゃっていたが、その世代の先生方が学校社会の中で多数派になると、意外と変化は速いのかも知れない、なんてことを考えた。

 

 朝から夕方まで、20人程度という普段の教室かちょっと小さいくらいのサイズでの濃密な1日であった。お三方の先生方の教室でも、子どもたちはこのような心地よい疲れを感じながら学んでいるのだろうなー、と思いながら帰路に就いた。またこうしてたくさんの素晴らしい先生方の実践に触れ、授業やクラスの可能性に胸が躍った。金先生の「一人一人に没入する」や、福島先生の「Now or Never」といった言葉を胸に、教室の中で生徒とともに過ごしていきたい。

 

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テスト勉強を理科室で

 3年生は11月上旬に大切な実力テストの受験を控えているため、教科書を進むのはしばしストップして、過去問に取り組むなどテスト対策中心の授業。これまではテスト対策=普通教室で授業をする、ということに何の疑問も抱いてこなかったが、生徒たちは普段の理科室での『学び合い』に慣れているため、そのままの流れで毎時間理科室で授業を行っている。普通教室から理科室へ毎回移動しなくてはならないため、生徒にとっては不評かと思いきや、予想に反して非常に好評。理科室での「学びやすさ」の方が勝っているらしい。

 授業では、1回の授業で1回分の過去問に取り組むことを基本単位にして、各自のペースで学んでいる(事前に過去問を配布し、必要があれば家庭学習としてある程度取り組んだ上で授業に臨む、という流れ)。生徒同士が計算問題などを教え合う際には、常備されているホワイトボードが大活躍。

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 教師も生徒からの要望があれば、黒板を使ってプチ講義を行う。年度当初は「先生が教えてしまうと生徒同士の『学び合い』を阻害してしまわないだろうか?」と心配していたが、ほとんどの生徒は自分たち同士で学び合い、たまに教師に詳しい解説や講義を求めてくる程度である。いちいち先生に聞きに行くよりも、基本は自分たち同士で学び合った方が効率がいいという判断だろうか。

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 また、理科室の最大の利点はいつでも実験の復習ができる点だろう。難解な鏡を使った問題について、実際に実験してみる生徒が多数見られた。

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 それ以外にも、机のサイズが大きい、お互い向かい合う配置なので学び合いやすい、など数々の利点があるのは以前に書いた通り。さらに、この時期理科室が好まれる理由として、日当たりがいいために普通教室よりも暖かいという利点もあるらしい。

 

 という訳で、傍から見ると立ち歩いたり教え合ったりする生徒の姿もあり、教室前方の黒板で講義を受ける生徒の姿もあり、隅の方では実験に勤しむ生徒の姿もあり…と何でもありのカオスな理科室だが、なかなか心地良い学びの空間となっている。これまでも、こういったテスト勉強の際には『学び合い』もどきのことはしてきたけれど、4月から毎時間『学び合い』に取り組んできたクラスはやはり学びに向かう空気が違う。結果につながることを期待したい。

 

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校内研究会を終えて

 年に一度の校内研究会での代表授業。昨年度と実施時期がほぼ一緒な上、担当学年も同じ(3年生)なため、扱う内容も昨年度と同じになってしまった。しかし、この1年で自分の授業に対する考え方もいろいろと変化したため、その変容を意識した授業を見ていただくことにした。

 単元は「エネルギーと仕事」の運動エネルギーと位置エネルギーについて。昨年度は、

  • 「速度」もしくは「質量」と「運動エネルギーの大きさ」の関係を調べるための実験の方法を自由に考え、班ごとに計画を立てる(2時間程度)
  • 実際に実験を行った後グラフ化して班ごとに発表し、最後は二次関数になることを教師側でまとめる(本時)

という流れで行った。当時は「何とかアクティブ・ラーニングの授業をしなきゃ!」という思いが先行し、かなり手間暇をかけて準備をして当日を迎えた記憶がある。しかし、授業後に自分の中でしっくり来なかったことは、

  1. 準備・計画も含めて時間がかかりすぎ(計3時間)、教師側の手間も大きかった→もっと日常的にできるアクティブ・ラーニングにするには?
  2. 生徒に探究的な学びをさせたことまではいいが、結局最後は教師側から答えを示してしまった→アクティブ・ラーニングにおける授業の終末の在り方とは?

という2点だった。そして、1年間に渡ってこの2点をいかにクリアするか試行錯誤する中で、『学び合い』の考え方に深く共感し、特に今年度に入ってから『学び合い』を日常的に実践してきたという経緯がある。そして今回、『学び合い』の考え方を取り入れたことで、扱う内容は同じでも、かなりアプローチの異なる授業となった。

 

1.日常的に行うことについて

 昨年は、「運動エネルギーは速さに二次比例することを実験により確かめる」という発展的なレベルの高い課題にしてしまったため、どうしても時間をかけざるを得なかった。しかし、扱わなければならない本質的な内容は、

  • 運動エネルギーは、「物体の速さが速いほど大きくなる」「物体の質量が大きいほど大きくなる」
  • 位置エネルギーは、「物体の高さが高いほど大きくなる」「物体の質量が大きいほど大きくなる」

という2点に過ぎない(二次比例はもちろん、一次比例することすら確かめなくてよい)。であれば、準備・計画に何時間も費やさずとも、1時間の中でごく簡単に実験計画を立てて検証することができると考えた。

2.授業の終末について

 昨年ように探究型にするのではなく、今回はゴールをを先に示した上で、「これらを明らかにするための実験を計画し、検証する」ことを課題とした。また、『学び合い』の考え方の根幹である「一人も見捨てない→全員の課題達成を求める」ことで、集団としての学びの必然性を生み出すことにした。

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 実際の授業では、昨年のように用意周到でアカデミックな面白い実験は見られないものの、教科書通りの実験をするグループもあれば、自分で考えたオリジナルな実験を考案するグループも見られた。1時間という短い中で計画→実験→検証を行うのはなかなか厳しかったが、検証するべきゴールは明示されていることで、生徒はスムーズに取り組めていたように感じた。教師の導入と終末の話は最小限に留め、40分間生徒の活動の時間を確保し、生徒同士の関わりを促しながら、何とか時間内に全員課題達成。

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 授業を終えた後の事後研究会では、同僚の先生方や教科指導の先生方から、特に上記の2点について、

  1. 1時間の中では、十分な計画を立てることができず、ただ作業的にこなすだけになるなど、雑な実験になってしまっている生徒が見られた。最終的に全員ネームプレートを裏返していたが、本当に科学的な検証ができ、理解につながったのか。
  2. 先にゴールが分かってしまっている中では、単なる検証実験になってしまう。やはり理科では、きちんと自分で仮説を立てて実験を進める中で真実を明らかにしていく過程を大切にすべきではないか。

というご意見をいただいた。確かに、4月から日常的に『学び合い』を続けてきた中で、教師側も生徒側も形式的になってしまっていた(悪い意味で”楽”をしていた)部分があり、「ただの放任ではないか」という印象を与えてしまったという点は、真摯に反省しなければならない部分だと思う。「生徒を管理する」「生徒に任せる」のどちらが正しいという捉え方ではなく、管理する(枠を示す)のは教師側の仕事であるはずなのに、その中でいかに生徒に任せるかという線引きが緩んでいたことは否めない。

 しかし一方で、なかなか1回の授業では自分の授業に対する考え方を分かっていただくのは難しいな…と感じたことも事実だ。そのためには、生徒の変容やテストの点数など、明確な形で「結果を出す」しかないのだと思う。また、こうしたご意見をいただくのも、これまでの自分の授業観を一新してゼロから模索していこうと挑戦した結果だと前向きに受け止めればいいのだと感じた。

 また日々修行です。

 

<追記>

 2、3日いろいろ考えたが、やはり「評価」という部分が不十分だったということに、信州大三崎先生のブログを読んで思い知らされた。

評価は,何も見ないで誰にも聞かないでまとめるものです。当該授業の最後10分を使って書かせる予定にしています。もちろん,当たり前のことですが,①どのような評価をするのか(何も見ないで誰にも聞かないでまとめること),②評価規準(確認テストができること),③いつ評価するのか(授業の最後の10分(授業の時には「◎時◎分」と板書します)になったら始めること)は,活動する前に子どもたちに明示しなければならないことは言うまでもありません。楽しみです。誤解されないように言わせてもらえば,『学び合い』ですから,確認テストをしなければ『学び合い』ではないということではありません。

小単元が終わった後に「単元まとめテストで全員80点を取る」という課題で総括的評価をしているが、そのことがうまく伝わらなかったという部分はある。しかし、授業中での形成的評価も行うと指導案に明記されている以上、1時間単位での評価についてもっと言語活動を通じてする必要があったと思い知らされた。確かに評価の部分については4月からずっと迷ってきた(換言すれば逃げてきた)部分であるので、これを機に今一度再考したいと思う。

「何者」の公開初日初回上映を観た

 例によって午前中妻と息子が出掛けてしまったので、本日公開された映画「何者」を観に行った。公開初日の初回上映だから混雑を覚悟していたのに、せいぜい20人程度の入りだった。さすが地方、とも思ったが、あまりのいいお天気だったからこんな日にインドアで内向的な映画は人気がなかったのかも知れない。

nanimono-movie.com

 

 映画は比較的原作に忠実で、過去に原作を読んだときの「何でこの小説は自分のことについて書いてあるんだ?」という”あの感覚”を再び味わった。原作を読んだ直後は、この感覚は個人的なものなのか普遍的なものなのかが気になってしまい、いろいろ検索したりレビューを読んだりして、そんな行動こそが主人公・二宮拓人のやってることそのものだと気付き、さらに自嘲的な気持ちになったものだった。今回映画も観たくなったのは、”あの感覚”を再び味わいたいという怖い物見たさの部分が大きい。

 こういった「まるで自分を見ているかのような作品」は、どんどん先を見せてくれと思う反面、気恥ずかしくてもうこれ以上見たくない、という相反する2つの感情が同時に去来する(原作を読んでいてオチまで知っているのに)。この感じ、過去に他の映画でも経験したなーとあれこれ考えたところ、大学時代に観た北野武監督の「Kids Return」を思い出した。

 あの映画も、校庭で自転車を2人乗りしながらの「俺たちもう終わっちゃったのかな…」「バカヤロー、まだ始まっちゃいねーよ!」というラストの名台詞でもって、2人の若者が「何者」かになろうとして結局「何者」にもなれず、そしてこれからも「何者」にもなれないだろう虚しさ・哀しさを表現した映画だ。「何者」も、結局主要登場人物の誰一人として「何者」にもなっていない・なれないという後味の悪さを残して終わる。そういう意味では、「何者」=「大卒版Kids Return」とも言えるかもしれない。

 かつて伊集院光が、ダウンタウン松本人志のすごさは「『松本人志の面白さを本当にわかるのは俺だけだ』とみんなに思わせることができるところだ」と形容した。この「何者」も、「この主人公(or他の登場人物)の気持ちを本当にわかるのは俺だけだ」と我々世代の多くは思うということなのだろう。

 

 前半は原作とそのまんまだなーと思いきや、後半は映像表現ならではの部分もあったり、最後は「イニシエーション・ラブ」のような謎解きのための巻き戻し演出なんかもあったり、原作以上に十分面白かった。90分という長さもちょうど良かった(それでも途中トイレに立った自分の準備不足を恥じる)。そして何よりキャスティングがイメージそのまんま。特にくたびれた理系の院生という役には、山田孝之以上にピッタリの俳優はいないと思う。この時代になっても理系の学生=服装が垢抜けない、という表現方法が有効であるということに一抹の悲哀を感じずにはいられないが。

 

何者 (新潮文庫)

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