デヴィッド・ボウイは理想の教育者である
デヴィッド・ボウイが亡くなった。私は高校時代にボウイの音楽に触れて以来、大学生から社会人にかけて全てのアルバムを収集・愛聴してきたファンの端くれである。特に名盤と名高い「Ziggy Stardust」や「Low」「Heroes」などは何回聴いたかわからない。大学時代はコンポ(懐かしい響きだ)の目覚ましタイマーをアルバム「Heroes」が流れるように設定しておいて、1曲目の「Beauty and the Beast」のイントロで起きるのが毎朝の習慣だった。大抵は10分程度二度寝して、3曲目の「Heroes」の途中でベッドから這い出していた。うっかり寝過ごしてしまったときは、最終曲の「The Secret Life of Arabia」が流れる中で慌てて支度をしていたのを今も思い出す。
最近は久々の新作「The Next Day」もYoutubeで何度も聴いていたし、結果的に遺作となってしまった最新作「Blackstar」も楽しみにしていた。突然の訃報にただただ唖然とするばかりである。
デヴィッド・ボウイの魅力はその音楽だけではない。彼の凄さはいつまでも変化し続けたところにある。60年代のシンプルなロック少年の頃に始まり、70年代前半のグラム・ロック期、70年代後半のプログレ期、さらに80年代のダンス・ミュージック期やバンド・サウンド回帰期を経て、90年代や2000年代以降も作品を出し続けた。商業的な成功者として、守りに入ったり大人しく隠居したりすればいいものを、「節操がない」「商業主義者だ」などと批判を受けながらも、彼はひたすら変化し続けた。
ボウイと同じくグラム・ロックという時代の寵児であったT-Rexのマーク・ボランは、自動車事故により29歳という若さで鬼籍に入った。夭折した他のロック・ミュージシャン同様、伝説的な存在としてあの頃の若さのまま真空パックされている。
一方、ボウイは老いた。しかし、「年齢を重ねて変わっていくことは決してカッコ悪くない」ことを身をもって教えてくれた。「変化することは素晴らしい」ことを体現してくれた。
極論ではあるが、我々教師は子どもたちに対して「成長しろ」と言い続けるのが仕事である。「成長」とは、換言すれば「変わること」に他ならない。今いる場所から、新しい場所に移動すること。それはとても勇気が要るが、何ものにも代え難い素晴らしいことであること。それを全力で伝えるのが我々教師の役目だと考えている。
「変わること」を子どもたちに伝えるためには、まず教師自身が「変わること」を恐れない姿を見せなければならない。そういう意味で、私は教師として大切なものをボウイの生き方から学んだ。そして、ボウイはこれからも私の偉大なる恩師である。
「変化からの逃避」は、実は「成長からの逃避」を意味している。変化のないところに成長などあり得ないからである。
— 堀 裕嗣 (@kotonoha1966) May 23, 2011
教師は成長する主体であることが重要です。それでこそ生徒を教育する資格を有するのです。成長とは自らを変えることにほかなりません。変化を怖れる者、現状維持にどっぷり楽をしている者は教師には向きません。
— 堀 裕嗣 (@kotonoha1966) October 16, 2011
多くの教師が変化を何より恐れています。変化しないことが最も楽で、安全で、安心だからです。しかし、子どもを相手にしているというのに変化しないことを求めるなど背理なのです。ハプニングを起こさない子どもなど子どもではありません。ハプニングを楽しめない人は実は教師には向いていません。
— 堀 裕嗣 (@kotonoha1966) September 27, 2011