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なぜ校長先生の話はつまらないのか

 記事のタイトルは、どなたか特定の校長先生について言及している訳ではない。巷間に広く存在する「あるあるネタ」の一つとして考えていただければ幸いである。

 

 校長先生は全校生徒を前にして話をする以上、当然ながら「○年○組の○○さんだけ」を想定した話をする訳にはいかない。自ずと「全員にとってためになる話」をしなければならなくなる。しかし、「全員にとってためになる話」は、聴く方の立場にとってみれば「別に自分が聞かなくてもいい話」である。自分が一生懸命聞こうが適当に聞き流そうが、誰も何の関心も示さない。それが「つまらない」という感情を生み出す。

 同じことが、30人程度の教室の中でも十分起こりうるのではないか。一斉授業で教師が一方的に話すとき、それは一体誰を聞き手として想定しているのか。校長先生の例と同様に、結果的に生徒は「別に自分が聞かなくてもいい話」とみなしてはいないだろうか。

 その点、アクティブ・ラーニングにおいて推奨されるペア学習やグループ学習は、「自分のためだけに話をしてくれる人がいる」「自分だけの話を聞いてくれる人がいる」という状況を必然的に生み出す。「別に自分が聞かなくてもいい」どころか「自分がいなければ成り立たない」のである。校長先生の話や一斉授業では不可能であるこの関係性を創出することこそ、アクティブ・ラーニングの目指す本質ではないだろうか。

 

 昨今の教育現場で盛んに話題に上る「自尊感情」や「自己肯定感」といったものは、「自分は偉い」などというものではなく、「自分を必要としてくれている人がここにいる」という事実から導出される「だから自分はここにいる意味がある」という自己意識に他ならない。アクティブ・ラーニングとは単なるテクニックではなく、そうした自尊意識や自己肯定感を高めるための一つの哲学として捉えるべきだと考えるのである。