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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

附属中教育研究集会

 金曜日は地元国立大学の教育学部附属中学校の教育研究集会に参加。午前中2時間の参観授業に加えて、午後は分科会&シンポジウム。途中に全校音楽の練習や生徒会等の発表など、生徒主体の活動の様子も見せていただいた。数年前に1泊2日で京都教育大学附属京都小中学校の研究協議会に参加したときも感じたことだが、1時間だけの研究授業への参加などとは異なり、丸1日以上その学校に滞在させてもらうと、その学校の文化のようなものに触れた気分になる。授業は学校活動全体の一部であり、他の教育活動と地続きであることを強く感じた。特に今年度は自分自身が生徒会を担当していることもあり、生徒主体の活動の様子を間近で見られたことで、すぐにでも現場で活かせるアイディアや考え方をたくさんいただいた。また、全校合唱の様子は録画したので、合唱コンクールが近付いたら自分のクラスで紹介したい。

 

 今回は研究協力者として事前の研究会から参加していたので、参観のポイントを事前に明確に固めた上で、授業全体を見取ることができたことが非常に有益だった。一般の公立学校の授業研究(指導主事訪問など)では、参加されるのは近くの学校等からいらっしゃった現場の先生方が多いため、事後の研究会ではあくまでも「いざ自分たちが現場で実践・継続していくにはどうすればいいか?」というリアルな話題が中心となりがちである。しかし、附属中では参加者も当然大学の先生方や学生・院生の方々が多く、研究会でも学術的な話題に終始するという経験が自分にとってはとても新鮮だった。現場の教師としては、それら学術的なエッセンスを現場でどう取り入れ、活かしていくかが求められているということなのだろう。附属中の研究というものの立ち位置が少しわかったような気がした。

 

 分科会の中で、「発言したりつぶやいたりする生徒はいいが、じっと実験を見ているだけの生徒をどう見取るか?」という問いに対して議論が巻き起こったが、個人的にはやはり難しいと感じる。仮に自分に優れた力量があって生徒の表情などから見取れたとしても、それをクラス全員・50分間・毎時間可能なのだろうか。こういった授業参観の場面で参観者として1人の生徒の変容を追っかけるだけでもなかなか難しいのに、それが授業者という立場で全体を把握しながら、かつ個別に生徒一人一人を見取るというのは至難の業ではないだろうか。

 中にはそれができる教師もいらっしゃるのかも知れないが、実践者である全ての教師が普遍的に可能であることにこそ価値があるはずだ。そういう意味では、教師ー生徒の縦糸の関係を通して「個人」を見取るよりも、生徒ー生徒の横糸の関係を通して「集団」を見取ることの方が現実的ではないかと考えた。