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地方中学理科教師/アクティブ・ラーニング/『学び合い』/アドラー心理学/コーチング/

アクティブの意味

 先日、地域の中学校理科の先生方でつくる研究団体の研究集会に参加した。ブロック内の代表校の実践発表をお聞きし、8月に行われる県全体での発表のために参加者の先生方が意見や助言を伝える、というものだ。

 

 テーマは「モデル化」で、粒子モデルなどの構築や話し合い活動を通して科学的な見方や考え方を養うというものだった。その資料の「はじめに」という実践の枕となる部分で「アクティブ・ラーニング」について触れられていたため、参加者のある先生から「この実践内容とアクティブ・ラーニングとの関連性は何か」という質問が出た。

 「この実践内容がアクティブ・ラーニングかどうか」という議論が成立するには、当然ながらアクティブ・ラーニングの定義について、参加者の中でコンセンサスがあることが大前提である。しかし、議論が進むにつれて、参加者の先生方の中でアクティブ・ラーニングについて「能動的」「主体的」という定義と「協働的」「集団的」という定義が混在しているように感じた。

 改めて文部科学省の定義を読むと、

教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、 教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク 等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。 

 とあり、最初の一文の中に「能動的」とはっきり書かれている。しかし、後半部を見ると「協働的」な意味合いも見て取れるため、そこだけを読むと「要するに集団活動をすればいいんでしょ?」という結論に落ち着いてしまう。確かに、多くの教師側にとって「能動的」と「協働的」のどちらがイメージしやすいかと言えば、間違いなく「協働的」であろう。さらに、アクティビティ=活動と訳されるように、アクティブという単語が活動そのものを連想させてしまうのも一因であるように感じる。実際、ネット上の辞書で「active」を調べると、最初に出てくる意味は「活動的な、活発な」であり、「能動の」の意味は6番目にしか登場しない。

ejje.weblio.jp

 このことが、「生徒が活動していればアクティブ・ラーニングだ」とか「別に新たに特別なことをする必要はない」という理解につながっている原因ではないだろうか。

 

 しかし、文科省の定義をどう読んでも要諦は「学修者の能動的な学修への参加を取り入れ た教授・学習法」である。そしてその目的は「認知的、倫理的、社会的能力、 教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成」に他ならない。そして、そのためには「発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等」をやるのが望ましいけれど、授業時数とか受験とかいろいろと現場の事情があっていつもいつもそんなことばかりはしていられないだろうから、教室の中で日常的に行う場合は「グループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク 等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である」よね、という解釈をすべきなのではないだろうか。

 ということは、「能動的」と「協働的」を並列的に考えること自体がナンセンスなのだろう。「能動的」な学修そのものが目的で、それを実現するための手段の1つとして「協働的」な活動が有効であるという順番で語られるべきものなのだ。「協働的」「集団的」は手段に過ぎないのだから、それ自体に良いも悪いもない。それによって「能動的」な学修になっているのかどうかが大切なのであって、逆にそれができているならば昔ながらの講義形式の授業だってアクティブ・ラーニングと言えるはずである。

 

 今回の研究集会をきっかけにしてアクティブ・ラーニングの定義を見直すことができ、やっと腑に落ちてきた感がある。しかし、やはり「アクティブ」という表現があらぬ誤解を産んでいる事実は否定できないと思う(中には横文字というだけで嫌悪感を抱く人も少なくない)。シンプルに「能動的学修」とかの方が意味は通じやすいのかも知れない。