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「イジメ」と「イジり」の違いは、「怒る」と「叱る」の違いと同じ

 Yahoo!ニュースに以下のような記事が掲載されていた。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

 この記事の中で、ライターのてれびのスキマさん

もちろん、僕のようなお笑い好きの人たちにとって「イジメ」と「イジり」が感覚的に違うことは知っている。

だが、それを声高に主張することは、逆に「イジメ」をする側に“言い訳”を与えることになってしまうのではないか。

自分たちがやっているのは「イジメ」ではない、仲間内の「イジり」だ、と。

(中略)

よく「イジリには愛がある。イジられてる側も喜んでいる」などと言うが、実際はどうあれ、これこそもイジメる側の理屈そのものだ。

 と看破されている。

 「イジメ」と「イジり」の違いがあるとすれば、それは「される側」が遂行的に判断するものであるはずである(つまり、される側がイジメと感じたら「イジメ」)。しかし、「イジメとイジりは違う」と主張するのは、決まって「する側」である。この理屈は専ら「する側」の自己正当化に使われる詭弁に過ぎないと言える。

 したがって、「イジメ」と「イジり」という本質的に同じものを区別できるとしたら、それは「イジメ」と「イジり」は本質的に同じであるということの危険性を理解している場合に限られる(同語反復のようだが)。このことを肝に銘じなければならないと思う。

 

 この記事を読んで、この「イジメ」と「イジり」の関係性は、「怒る」と「叱る」のそれと同じではないかと考えた。よく育児や先生向けのハウツー本などでは「怒る=自分の思いを感情的にぶつける」「叱る=理性的に敢えて声を荒げる」といった解説がされるが、これも「される側」が遂行的に判断するものに過ぎない。しかし、「怒ると叱るは違うんだよ!」と主張するのは決まって「する側」である教師である(「怒ると叱るは違うんですよね」と言う子供に未だかつて出会ったことがない)。つまり、この主張は「教師が感情によって子供をコントロールすることは(場合によっては)教育的である」という命題に正当性を与える免罪符としての役割を果たしていると言えるのではないか。

 アドラー心理学では、「怒る」も「叱る」も感情によって相手をコントロールし、手っ取り早く屈服させようとする安易な手段に過ぎない、という点で違いはないとされる。結局のところ「相手のため」ではなく「自分のため」なのだ。だから教師は、叱ったつもりなのに相手にうまく伝わらないとき、「お前のためを思って言ってるんだよ!」という、子供が最も嫌悪する言葉を押しつけるように付け加えざるを得なくなる。本当は誰のためなのかは、「される側」である子供が適切に判断してくれるはずだ。

 

 こうした「する側」の論理として都合良く機能してはいないか、教師のような権力を持つよう(に思われがち)な立場に立つ人間は、常に自覚的であらねばならないと思う。

 

てれびのスキマさんの本。名著です。