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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

動画に奪われる教師の役割

 行事が一段落し、この1週間は職員同士の授業参観期間だった。理科はもちろん、自分の担任クラスや担当学年の授業はこれまでも日常的に参観させてもらっていたので、今日は他学年かつ他教科の授業を参観させていただいた。

 中1の国語(書写)の授業だったのだが、お手本の書き方を動画で流しているのを見て、なるほど書写だとこういうICTの使い方があるのか、ということに気付かされた。確かに国語の先生でも書写は自信がないという方はいらっしゃるだろうし、小学校なら全ての先生が書写を教える可能性がある。動画なら優れたお手本を繰り返し見せることができ、その間先生の手も空くなど、教師側にとって数多くのメリットがある。

 他にも、特に実技教科においては、こうした動画が絶大な力を発揮することは容易に想像できる。体育の授業であれば、跳び箱などの模範演技を見せることができるし、理科でも正しい実験器具の使い方を見せたりすることは少なくない。部活動だって、例えば運動部ならば、強豪校や有名選手の試合やフォームをビデオやDVDで観たりすることは昔からやってきたはずだ。生徒にとっても、優れた実技を繰り返し見ることができるのだから、メリットは大きいだろう。

 

 では、もし生徒が「先生、ネットにアップされている『走れメロス』の講義動画がとてもわかりやすいらしいので、書写のときと同じように、授業でその動画を流してください」と言ってきたら、我々は一体どうするのだろうか。

 教師の立場としては「実技を見せるのと教えるのは違うのだ」と言いたいところだが、その主張が現代の中学生を納得させることができるとは到底思えない。事実、過去には教師の役割であった「実技の模範を示す」仕事が、特に抵抗もなく(むしろ教師側も歓迎する形で)動画に取って代わられた今、教師にとっての本丸であるはずの「教える」仕事も、動画によって奪われるのは時間の問題ではないか。両者の間に明確なボーダーラインが存在しない以上、「実技の動画は流すけど講義の動画はダメ」と言えるだけの理論武装は極めて難しいだろう。生徒(もしくは保護者)が実際にその願望を口にする日はそう遠くないと思う(というか、もう来ているのかも)。

 

 そう考えると、昨今のアクティブ・ラーニングの趨勢は、流行り廃りなどというレベルではなく、教師という仕事がこれからどこに向かっていくのか、さらには教師という仕事が生き残れるのか、というレベルで議論すべきだと感じずにはいられない。