皆勤賞と『学び合い』
月130時間の残業などが原因で過労死と認定された電通の女性社員のニュースについて、ネット上でたくさんの言説が飛び交っている。
自分のTwitterのTLは教育関係者が多いため、「こういったブラックな働き方をしてしまうのは、皆勤賞を美徳とする日本の学校文化にも原因があるのではないか」という意見が散見される。
子供の頃から「皆勤賞」を目標とさせられたり、習い事は続けることに意義がある的な教えを受けてきた人間にとっては、「疲れたら無理せず休めばいい」「仕事がツラければ辞めればいい」と言われても、染みついた考えは早々変えられないし、むしろその優しいアドバイスがストレスになることもあると思う
— 深爪@初紙書籍「深爪式」絶賛ご予約受付中 (@fukazume_taro) October 10, 2016
教員は、学校を休むことに異常に抵抗感を持っている人が多い。少しくらいの体調不良なら、頑張って授業に出ろと指導する。「社会に出たら通用しないぞ」ってね。
— ボダイ (@bodai36) October 9, 2016
生徒には「そんな社会は間違っているのでは?」という問題提起ができる力を身につけて欲しい。
確かに、この考え方には一理ある。しかし同時に、仮に今すぐ皆勤賞という学校文化をなくしたところで、大きな変化はないと思う。卒業するときにもらえる賞状1枚が、そこまでの影響力を持つとは考えにくい。なぜなら、学校現場で日常的に行われ、学校教育の大部分を占めている授業そのものが、「全員欠かさずに受ける」ことを前提に行われているからだ。
自分が小さいときのことを思い返してみると、体調が悪いなどの理由で休むときに最初に脳裏をよぎるのは、「自分がいない間に授業が進んでしまう」という不安だった(人によっては「皆勤賞を逃した!」と思うかも知れないが、全員ではないだろうし、最初は気にしていても2日目からはどうでもよくなる)。当然ながら(学級閉鎖などの緊急の場合は別にして)、欠席者の存在などお構いなしに教室での日々の授業は進んでいく。教師は表向き「休んだら友達にノート借りたり教えてもらったりしろよ」とは言うが、複数の教科について限られた時間の中で実際に行うことは極めて難しい。欠席が長引けば尚更である。そうした(学校文化と言うよりもむしろ)学校制度そのものが、「休むことは悪だ」という概念形成に与しているように思えてならないのだ。
今実践している小単元丸ごとの『学び合い』では、小単元の内容を数時間かけて全員が理解することを課題としている。つまり、その数時間の中での学ぶペースや方法は個人に任せている。先日、その数時間の最初の日に欠席した生徒が複数いたクラスでは、進度が速い生徒がちょっと離れた机に欠席した生徒を集めて、遅れた1時間を取り戻そうとプチ授業を行っていた。この光景を眺めながら、「この1時間ではこれを学ぶ、そして次の1時間ではこれを学ぶ」という教師のペースに全員が合わせなければならないから、生徒は「1時間たりとも休んではならない」という発想に至るのではないかと考えた。生徒に任せ、生徒の自由度を高めることにより、随分と「休みやすくなる」のではないだろうか。
教育哲学者の苫野一徳先生は著書「教育の力」の中で、
「よい」学びを生み出すための具体的方策として、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」が有効である
と主張されているが、この「個別化」「協同化」「プロジェクト化」を学校現場で進めていくことは、今後の日本の労働の在り方にもつながっていくのではないかと考えた。