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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

校内研究会を終えて

 年に一度の校内研究会での代表授業。昨年度と実施時期がほぼ一緒な上、担当学年も同じ(3年生)なため、扱う内容も昨年度と同じになってしまった。しかし、この1年で自分の授業に対する考え方もいろいろと変化したため、その変容を意識した授業を見ていただくことにした。

 単元は「エネルギーと仕事」の運動エネルギーと位置エネルギーについて。昨年度は、

  • 「速度」もしくは「質量」と「運動エネルギーの大きさ」の関係を調べるための実験の方法を自由に考え、班ごとに計画を立てる(2時間程度)
  • 実際に実験を行った後グラフ化して班ごとに発表し、最後は二次関数になることを教師側でまとめる(本時)

という流れで行った。当時は「何とかアクティブ・ラーニングの授業をしなきゃ!」という思いが先行し、かなり手間暇をかけて準備をして当日を迎えた記憶がある。しかし、授業後に自分の中でしっくり来なかったことは、

  1. 準備・計画も含めて時間がかかりすぎ(計3時間)、教師側の手間も大きかった→もっと日常的にできるアクティブ・ラーニングにするには?
  2. 生徒に探究的な学びをさせたことまではいいが、結局最後は教師側から答えを示してしまった→アクティブ・ラーニングにおける授業の終末の在り方とは?

という2点だった。そして、1年間に渡ってこの2点をいかにクリアするか試行錯誤する中で、『学び合い』の考え方に深く共感し、特に今年度に入ってから『学び合い』を日常的に実践してきたという経緯がある。そして今回、『学び合い』の考え方を取り入れたことで、扱う内容は同じでも、かなりアプローチの異なる授業となった。

 

1.日常的に行うことについて

 昨年は、「運動エネルギーは速さに二次比例することを実験により確かめる」という発展的なレベルの高い課題にしてしまったため、どうしても時間をかけざるを得なかった。しかし、扱わなければならない本質的な内容は、

  • 運動エネルギーは、「物体の速さが速いほど大きくなる」「物体の質量が大きいほど大きくなる」
  • 位置エネルギーは、「物体の高さが高いほど大きくなる」「物体の質量が大きいほど大きくなる」

という2点に過ぎない(二次比例はもちろん、一次比例することすら確かめなくてよい)。であれば、準備・計画に何時間も費やさずとも、1時間の中でごく簡単に実験計画を立てて検証することができると考えた。

2.授業の終末について

 昨年ように探究型にするのではなく、今回はゴールをを先に示した上で、「これらを明らかにするための実験を計画し、検証する」ことを課題とした。また、『学び合い』の考え方の根幹である「一人も見捨てない→全員の課題達成を求める」ことで、集団としての学びの必然性を生み出すことにした。

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 実際の授業では、昨年のように用意周到でアカデミックな面白い実験は見られないものの、教科書通りの実験をするグループもあれば、自分で考えたオリジナルな実験を考案するグループも見られた。1時間という短い中で計画→実験→検証を行うのはなかなか厳しかったが、検証するべきゴールは明示されていることで、生徒はスムーズに取り組めていたように感じた。教師の導入と終末の話は最小限に留め、40分間生徒の活動の時間を確保し、生徒同士の関わりを促しながら、何とか時間内に全員課題達成。

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 授業を終えた後の事後研究会では、同僚の先生方や教科指導の先生方から、特に上記の2点について、

  1. 1時間の中では、十分な計画を立てることができず、ただ作業的にこなすだけになるなど、雑な実験になってしまっている生徒が見られた。最終的に全員ネームプレートを裏返していたが、本当に科学的な検証ができ、理解につながったのか。
  2. 先にゴールが分かってしまっている中では、単なる検証実験になってしまう。やはり理科では、きちんと自分で仮説を立てて実験を進める中で真実を明らかにしていく過程を大切にすべきではないか。

というご意見をいただいた。確かに、4月から日常的に『学び合い』を続けてきた中で、教師側も生徒側も形式的になってしまっていた(悪い意味で”楽”をしていた)部分があり、「ただの放任ではないか」という印象を与えてしまったという点は、真摯に反省しなければならない部分だと思う。「生徒を管理する」「生徒に任せる」のどちらが正しいという捉え方ではなく、管理する(枠を示す)のは教師側の仕事であるはずなのに、その中でいかに生徒に任せるかという線引きが緩んでいたことは否めない。

 しかし一方で、なかなか1回の授業では自分の授業に対する考え方を分かっていただくのは難しいな…と感じたことも事実だ。そのためには、生徒の変容やテストの点数など、明確な形で「結果を出す」しかないのだと思う。また、こうしたご意見をいただくのも、これまでの自分の授業観を一新してゼロから模索していこうと挑戦した結果だと前向きに受け止めればいいのだと感じた。

 また日々修行です。

 

<追記>

 2、3日いろいろ考えたが、やはり「評価」という部分が不十分だったということに、信州大三崎先生のブログを読んで思い知らされた。

評価は,何も見ないで誰にも聞かないでまとめるものです。当該授業の最後10分を使って書かせる予定にしています。もちろん,当たり前のことですが,①どのような評価をするのか(何も見ないで誰にも聞かないでまとめること),②評価規準(確認テストができること),③いつ評価するのか(授業の最後の10分(授業の時には「◎時◎分」と板書します)になったら始めること)は,活動する前に子どもたちに明示しなければならないことは言うまでもありません。楽しみです。誤解されないように言わせてもらえば,『学び合い』ですから,確認テストをしなければ『学び合い』ではないということではありません。

小単元が終わった後に「単元まとめテストで全員80点を取る」という課題で総括的評価をしているが、そのことがうまく伝わらなかったという部分はある。しかし、授業中での形成的評価も行うと指導案に明記されている以上、1時間単位での評価についてもっと言語活動を通じてする必要があったと思い知らされた。確かに評価の部分については4月からずっと迷ってきた(換言すれば逃げてきた)部分であるので、これを機に今一度再考したいと思う。