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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

自分で選んだことは、やる

 1年生は小単元「光の世界」丸ごとの『学び合い』に突入。様々な実験に加えて光の反射・屈折・凸レンズの作図もマスターしなければならないので、過去最長の9時間を確保した。

 この小単元の実験は、理科室のカーテンを閉めて電灯を消し、暗室にした上で行う必要がある。これまではクラス全員が同時に実験を行っていたので問題がなかったが、9時間にも渡って生徒に任せると、当然ながら実験を行うタイミングは班ごとにバラバラになる。ある班が暗室にして実験をしようとしても、他の班は明るい中で作図の問題をしたい、という事態が生じるのだ。室内は完全な暗室にはならないにしても、実験以外の作業はかなりやりづらくなってしまう。

 このデリケートな調整を、教師がやってしまっては勿体ない。「電気を消したかったら先生の許可を取る必要はないけど、クラス全体の許可は取ってくださいね」と最初に伝えておいた。すると、作図が終わって次の実験に移ろうとした女子の班が「消していいですかー?」と全体に呼びかけた。他の生徒は「まあ仕方ない」という感じで応じ、電気が消された。こうなると、電気を消した女子の班はクラス全体をリードして実験を行う責任が生じる。わざわざ全体にお願いまでした手前、”やらなくてはいけない”状況に追い込まれるのだ。

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 その後、作図をしていた他の班が「隣の理科室に行ってもいいですか?」と許可を求めてきた。使っていた理科室の隣にはもう1つ理科室があり、その時間はたまたま他に使っているクラスがいなかったので、その明るい理科室で作図の問題をしたいという判断だった。断る理由がなかったので、「授業終了5分前には戻ってくること」という条件で許可をしたところ、複数の班が隣の理科室へ移動して作図の問題を行っていた。これらの班も自分たちで許可をもらった手前、”やらなくてはいけない”状況を作り出したことになる。

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 そう考えると、仲間に「ねえ、教えて」と声をかけることも、それを自分で選んでいる、ということになる。「教えて」と自分から言ったからにはもう”やらなくてはいけない”のだ。自分自身で選ぶことによって、自分自身で責任を生み出しているということだ。

 もちろん、自分で決めるのではなく他人に決めてもらった方が楽である(例えば「黙ってノートを写す」「教師の指示通りに実験をする」とか)。しかし、人間は自分で選んだことだからこそ、自らの責任でやろうと思うのではないか。考えてみれば、大人というのは自分自身でで選ぶことの連続だとも言える。その経験をさせるのが学校という場所の役割なのではないだろうか。

 

 今年は昨年同様3年生担任という立場なので、この時期は進路決定に向けての三者懇談の真っ最中である。生徒一人一人といろいろな話をするが、最後にはどの生徒も「決めるのは先生でも親でもなく、あなた自身ですよ」という一言で終わる。それなのに、我々は普段の学校生活の中で「生徒が決める」という場面をどれだけ設けているだろうか?教師側の都合で決めたことを一方的に押しつけてばかりではないだろうか?と自問自答せずにはいられない。