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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

大阪『学び合い』SORAの会3回目

 3月5月に引き続き、SORAの会も3期連続3回目の参加となった。今回は夏休みに入ってすぐという時期で精神的にも楽だったが(夏休みでも8月後半とかになってくるといろいろとツラい)、2学期以降の授業の在り方について考えるヒントを得るという覚悟で臨んだ。

 今回はSORAの会1周年を記念して上越教育大の西川純先生が基調講演をされるということで、(いつもより参加費が高額にも関わらず)80名近くの先生方が参加。1年でここまで会を大きくされた、主催者のS先生のご尽力とご人徳には本当に頭が下がる。

 

 西川先生のお話を直接お聴きするのは、1月の高崎セミナーに続いて2回目だった。前回は「なぜ今アクティブ・ラーニングなのか」という”未来”のお話だったが、今回は一転して「なぜ『学び合い』に至ったか」という”過去”のお話をお聴きすることができた(今回は『学び合い』未実践者の先生方が多かったからだろうか?)。西川先生の著書の中に何度も出てくる内容なのだが、本には書かれていない(書けない?)ようなエピソードも多数あり、「生徒を幸せにする」という言葉の重みを改めて噛みしめた。

 また、『学び合い』的な授業形態はこれまでも決して珍しくなかったのだが、その本質を「1人も見捨てない」という表現に収斂させたことで、こうして広く実践が可能になったということにも気付かされた。

 

 実践者の先生方の発表は小・中・高の3校種で行われた(こうして自分と同じ校種の発表があると参考にしやすい)。特に中学校の実践発表をされた大阪のF先生は、新聞などで紹介された記事を読んだこともあり、ぜひお話をお聴きしたいと思っていた方だった。

 F先生は自分とほぼ同世代で、中学校においては所謂「中堅の男性教師」であり、特に生活指導などで中心となることが期待される立場である。F先生は一見中学生にとっては「怖そう」「厳しそう」な先生であり、また発表でお聴きしたような類い希なる卓越した話術をもってすれば、旧態依然とした中学校的な”シメる”指導も機能させることができるのではないかと(僭越ながら)思ってしまった。しかし、一斉授業とは完全に決別してあくまでもフルの『学び合い』を続けていらっしゃるお姿に、同じ中学校教師の端くれとして勇気をいただいた。フリートークでもお話を聴いたところ、「一切怒鳴る指導はしない」「生徒には方法ではなく目的を伝える」ともおっしゃっており、『学び合い』の考え方をあらゆる場面で実践されているということだった。学校内外でのお仕事を精力的にこなされていらっしゃるらしく、「自分も少しでも近付けるように頑張ろう」と心から尊敬の念を抱いた。

 

 その後の懇親会では、西川先生がわざわざ私の前の席まで来られて「何か困っていることない?」とお声をかけてくださり、緊張しながらもいくつかの質問にお答えをいただいた。西川先生ご本人がなぜそこまでされるのか?とも思ったが、この「困っていることない?」の声かけこそ『学び合い』そのものだと気付いた。それを自ら体現されているお姿に、「まず教師が手本を示す」とはこういうことなのだということを学んだ。

 また、西川先生からは「あなたも地元でこういう会を開いたら?」とご提案をいただいた。このSORAの会もこうした西川先生の一言から始まったということなので、自分も背中を押していただいたということなのだろう。不安材料は山ほどあるが、これを契機に真面目に検討してみようか…(S先生と同様、まずは妻を巻き込むというのはアリかも)。

 

 いろんな先生方や院生の方々とギリギリまで懇親会に参加し、22時過ぎに新大阪発の新幹線こだまに乗って、何とか日付が変わる前に自宅に帰還。新幹線を使えば終電が22時台にまで粘れるというということも今回発見した(閉店間際の新大阪駅の551に駆け込んで、妻から要望があった肉まんのお土産も何とか買えた)。

 

 2学期からの授業に活かすことはもちろん、週明けからの部活動でも早速アクションを起こしていきたい。