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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

『学び合い』指導案

 校内研究会での代表授業が迫り、そのための指導案作りに着手している。日々の授業同様、『学び合い』の授業を見ていただこうと思ったのだが、いざ『学び合い』全開の指導案を書こうと思うと、どのように書けばいいのか悩んでしまった。いろんなブログなどを読むと、あらぬ誤解を避けるためか、そういった授業では意図的に『学び合い』をしないという判断を下される先生方も多いようだ。実際に、県外の『学び合い』実践者の先生にメールでご相談したところ、

間違っても、『学び合い』をしよう、とか、『学び合い』の良さを見せよう!などの邪念(とあえて表現します)があると、危険かと思います。

 というご意見をいただき、さらに考え込んでしまった。

 

 確かに、『学び合い』ありきの自己満足に陥ってしまってはいけないことは言うまでもない。しかし、今自分が『学び合い』を実践している大きな理由の1つとして、校内研究会のような特別なときにだけ余所行きの授業をするのではなく、日常的にアクティブ・ラーニングを続けたいという思いがあったからだ。そして、実際に今年は4月からフルの『学び合い』を続けているという中で、あえてやり方を変える方がナンセンスである。

 そう考えると、『学び合い』を一切意識しなくても、子どもたちを信じ、多様な学びを保証し、全員が学習課題を達成しようとしたならば、自然と『学び合い』の授業形態に着地するのだということに気が付いた。その思いが指導案の中に表現されているならば、特に『学び合い』という言葉をわざわざ使わなくても済むのだ。

 この点に気付けたことによって、変に力みすぎることなく『学び合い』の指導案を書くことができた。いざ蓋を開けてみると、パッと見は確かに一斉授業と一線を画する部分が多いかも知れないが、自分はこういう考え方に基づいて授業をしているということが自信を持って言えそうである。『学び合い』の考え方がいつの間にか血肉化していたということだろうか。

 

 今回の校内研究会で教科指導にいらっしゃる先生が、昨年度までの子どもたちの学年主任だったという縁もある。彼らの成長を見ていただくという意味でも、これ以上ない機会であると思うとワクワクせずにはいられない。