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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

「反省させると犯罪者になります」岡本茂樹

 

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

 

  なかなか読む機会に恵まれなかった一冊。やっと読めた。タイトルはなかなかキャッチーだが、端的に言うと「反省至上主義」の現代に警鐘を鳴らすという内容。

 著者が刑務所での更正支援に関わっているため、本の中には刑務所での更正プログラムの問題点が多く指摘されている。そこで受刑者の書く「反省文」や「被害者宛の手紙」などは、刑務官の心証を良くしようという目的が先攻した、表面的なものに過ぎないという。被害者のことを考えたものではなく、「早く出所するため」など、自分本位の考え方から抜け出している訳ではないのだ。

 この刑務所における刑務官ー受刑者という力関係は、そのまま学校における教師ー生徒のそれに近いものがあるかも知れない。学校現場でも、教師は生徒に対して「反省」させたという結果を重視するあまり、反省を強制したり反省文を書かせたりする指導に重点が置かれる。生徒は教師の顔色を伺い、「反省したふり」を取り繕う。それが成功すればするほど、上辺だけの「反省したふり」ばかり上手な生徒が量産される。

 部活動の指導において、顧問が話をした後に「わかりましたか?」と尋ね、生徒が間髪を入れずに「はい!」と声を揃えて返事をする場面をよく見る。本当に話を聞いていたか、納得したかは問題ではなく、生徒にとっては顧問の話が終わったと同時に脊髄反射的に返事さえすればよいのだ。顧問は自己満足を覚える一方で、生徒が会得するのは顧問の言葉にできるだけ素速く返事をする瞬発力だけである(自戒の意味を含めて)。この様子は、学校現場で行われがちな、とにかく「反省」することを執拗に求める文化と共通するものを感じる。

 犯罪や問題行動には必ず目的がある。そうせざるを得ない必要があったからである。いきなり「反省」をさせるのではなく、その目的は何なのかという本音に寄り添わなければ本当に意味のある反省にはならない、と筆者は主張する。この考え方は、「原因」ではなく「目的」を重要視するアドラー心理学にも通じるものだ。自分自身も、生徒が心からの反省にまで至るように、受容的態度で導いていける教師でありたいと思った。