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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

「理科だからできる本当の『言語活動』」西川純

 

理科だからできる本当の「言語活動」

理科だからできる本当の「言語活動」

 

 

 1月の『学び合い』セミナーin群馬で紹介されていたので早速購入。「理科だから~」と銘打たれてはいるが、「理科の活動から分かった言語活動の本質」と言った感じの内容で、いろんな教科に応用可能だと感じた。

 

 特に印象に残ったのは、研究の成果に対してある院生さんが言ったという

学びが成立するか否かを決定するのは、教え手ではなく、学び手なんですね 

という言葉だ。この言葉から、内田樹氏が教育論や師弟論を語るときに必ずと言っていいほど引用される、フランスの精神分析ジャック・ラカンの語った一説を思い出した。

人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。

 「ニワトリが先か、卵が先か」とよく言われるが、学びに関して言えば「学び手」が先で「教え手」が後だ。まず学び手が「自分は学ぶ必要がある」と自覚した瞬間に学びが発動する。学び手が「自分はもう知っているから学ぶことはない」と思ってしまったら、どんなに立派な教え手でも為す術はない。

 ということを踏まえると、アクティブ・ラーニングにおける「アクティブ」とは、「いかに自分自身の学びの必要性を自覚できるか」とも定義できるのではないか。いかに生徒たちに「自分は学ばなければならない!」という気付きを与えるかが、我々教師の仕事とも言える。そのような学びへの意識が活性化された状態なら、間違いなく生徒のは主体的・能動的に学び合うことができるはずだ。

 生徒の学びを化学反応で例えるならば、反応速度を高めるためには、高温・高圧下で原子・分子の衝突頻度を高めることに似ていると思った。