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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

「他人」から「同僚」へ

 2年連続3年担任として迎えた体育祭。我が青組は優勝候補筆頭と言われていたものの、リレーでのバトンミスなどもありなかなか流れに乗れず、緑組との大接戦に。そして最後の選抜リレーのアンカーを任された男子のエースランナーが、1位でのゴール目前にゴールテープ手前5mで転倒し2位に終わるという信じられない幕切れ。

 最終結果は、まさかの青組・緑組の同点優勝。涙に暮れる女子、転んだ仲間を励ます男子、それらを拍手で讃える全校生徒…担任はただただ唖然とする以外何もできなかった。というより、何もする必要がなかった、と言った方が正しいかも。

 

 転倒した男子生徒は、直後のショックは大きかったものの、最後は「みんなが拍手で迎えてくれて嬉しかった」と話していた(幸いケガは大事には至らなかった)。この言葉を聞いて、『学び合い』のベースとなる

学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場 

 という学校観の中の「同僚」という表現の真意が掴めたように感じた。この経験を通じて、彼は自分の周りにいる人々を「他人」ではなく「同僚」として信頼できることができるようになったのではないか。次の一歩を踏み出す際に、「自分の周りには同僚がたくさんいる」という経験的事実が、彼の背中を押してくれるのではないか。これこそが「成長する」「大人になる」ということではないか。そんなことを考えた。

 

 この「同僚」であることを学ぶチャンスを、行事だけに限定してしまってはいけない。日々の教科学習の中でいかにこのチャンスを増やしていくかということを、突き詰めていかなければならないと思う。

 

 この担任としての思いを、以下のような学級通信にしたためた。

  数々のドラマがあった体育祭。たくさんの名場面がありましたが、一番嬉しかったのは、この3年○組が「チーム」として機能していた場面がたくさんあったことです。周囲の目を気にせずに熱い思いを表現する姿、大縄跳びが苦手な仲間を何とかサポートしようとする姿、そして傷付いた仲間を励まそうとしたり一緒に涙を流したりする姿…。3年○組にとっての体育祭は、当日に至るまでも含めてピンチの連続でした。そういううまくいかない場面だからこそ、本当の「チーム」としての姿が必要だったのです。

 「チーム」というのは、困っている人がいても知らんぷり…では成り立ちません。かと言っていつもべったり仲良し…とも少し違います。必要なときに適切にお互い手を差し伸べることができること。それが「チーム」の条件です。「チーム」の本当の力は、うまくいっているときではなく、うまくいかないときにこそ発揮されるのです。

 「うまくいかなかったときに誰も助けてくれなかったらどうしよう」と思うと、人は思い切って挑戦することができません。中学生がなかなか大人になれない理由は、「周りにどう思われるだろうか」ということを心配しすぎてしまうからです。「何かあってもきっと仲間が助けてくれる」と周りを信頼することができたとき、人は一歩「大人」として成長できるのだと思います。だから、体育祭を経験する前と後では、別人と言えるくらい一人一人が成長することができたと確信しています。

 担任があれこれ口出しをせずに正解でした。あなた方は自分たちでどんどん成長しています。理想の「チーム」に近付いています。この「チーム」の力が、日々の授業や学校生活で、そして目の前に迫った本当に最後の行事・文化祭で活かされることを願ってやみません。

 担任として心から誇らしく、幸せを感じることのできた体育祭でした。優勝おめでとう。

 

行事でのリーダーと教育実習生

 1週間の準備期間を経て、明日は体育祭当日。毎日1時間の応援合戦練習が終わる度に、応援リーダーを集めてミーティング。同時に来週の文化祭の合唱コンクールの練習も並行して行われるため、別の時間には指揮者やパートリーダーも集めてミーティング。リーダーの頑張りを労いながら、集団を動かすためのアドバイスを、時機を見て厳しい内容も入れながら、毎日続けている。今が疲れのピークだが、今年も充実した時間を生徒と共有できている印象を受ける。

 これって何かに似ているな?とずっと考えていたのだが、教育実習生への対応に酷似していることに気が付いた。生徒を子供扱いするのではなく、同じ大人(同業者)の目線で対話をする。こういった大人同士の信頼関係の中だからこそ、生徒は安心して力を伸ばしていくことができるのではないだろうか。「大人扱いすることでしか大人にならない」のは考えてみれば当然のことである。

 行事という一過性の場面では、どの学校でもこうして生徒を大人扱いするのに、日々の授業になるとやはり「教師=大人」「生徒=子供」という対立関係に固執してしまう。いかに授業の中で大人扱いをしていくか、この行事の場面の中にたくさんのヒントが隠されているはずだと考えるようになった(行事も授業も学校教育の一環として行われる以上、根幹にある目的は同じはずなのだから)。

 

 明日は担任が何も喋らなくても(むしろ喋らない方が)実りある行事になる手応えがある。以前はいかに担任が熱血教師然とした方策で生徒を引っ張っていくかばかりを考えていたが、ここ2~3年でやっと少し担任の在るべき立ち位置が見えてきたような気がする。

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クラスが動く

 2学期スタートと同時に、学校祭準備期間に突入。今週末の体育祭、来週末の文化祭に向けて、朝早くから夕方遅くまで生徒も教師も超ハードスケジュール。準備を通じて生徒とポジティブな関わりをたくさん持つことができるのが行事のいいところだ。

 

 今年の行事指導では、クラスの生徒とのコミュニケーションツールとして黒板を多用している。書く内容は<連絡>と<雑感>の2つを明確に分けている。<連絡>は、文字通り学校側からの連絡や急な変更点、他クラスとの公平性を保つための共通ルールなど、生徒に必要な事務連絡を書く。<雑感>は、生徒の活動に関して担任が感じたことをIメッセージとしてメモ的に羅列していく(あくまでも雑感なので、「役に立てばいいなあ、くらいのつもりで書いている」「参考にしてもしなくてもいいよ」と前置きしている)。

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  • 口頭では伝え切れないたくさんの連絡事項を確実に伝達できる
  • 何を伝えたか、伝えてないかの記録が残る
  • 昼以降は教室での授業がないので、下校時まで残すことができる
  • 担任が話す時間を削減でき、生徒主体の活動に充てられる
  • 即時性の高い学級通信替わりになる
  • ちょっと心が乱れても、書いているうちに鎮まってくる
  • 担任の(直接言いにくいような)正直な気持ちを伝えやすい

など、たくさんのメリットがあることに気付いた。これからもいかにして価値を高めていくかを模索しながら活用していきたい。

 

 行事に向けてたくさんの取り組みを同時並行で進めていく中で、「クラスが動いた」という瞬間がたくさん訪れる。特に今日は合唱練習を通して、クラスにとって重要な変化を確かに感じることができた。「カチッ」と音がしてスイッチが入ったようなイメージ。明日はどんな変化が起こるか?とハードながらもワクワクする日々である。

「イジメ」と「イジり」の違いは、「怒る」と「叱る」の違いと同じ

 Yahoo!ニュースに以下のような記事が掲載されていた。

bylines.news.yahoo.co.jp

 

 この記事の中で、ライターのてれびのスキマさん

もちろん、僕のようなお笑い好きの人たちにとって「イジメ」と「イジり」が感覚的に違うことは知っている。

だが、それを声高に主張することは、逆に「イジメ」をする側に“言い訳”を与えることになってしまうのではないか。

自分たちがやっているのは「イジメ」ではない、仲間内の「イジり」だ、と。

(中略)

よく「イジリには愛がある。イジられてる側も喜んでいる」などと言うが、実際はどうあれ、これこそもイジメる側の理屈そのものだ。

 と看破されている。

 「イジメ」と「イジり」の違いがあるとすれば、それは「される側」が遂行的に判断するものであるはずである(つまり、される側がイジメと感じたら「イジメ」)。しかし、「イジメとイジりは違う」と主張するのは、決まって「する側」である。この理屈は専ら「する側」の自己正当化に使われる詭弁に過ぎないと言える。

 したがって、「イジメ」と「イジり」という本質的に同じものを区別できるとしたら、それは「イジメ」と「イジり」は本質的に同じであるということの危険性を理解している場合に限られる(同語反復のようだが)。このことを肝に銘じなければならないと思う。

 

 この記事を読んで、この「イジメ」と「イジり」の関係性は、「怒る」と「叱る」のそれと同じではないかと考えた。よく育児や先生向けのハウツー本などでは「怒る=自分の思いを感情的にぶつける」「叱る=理性的に敢えて声を荒げる」といった解説がされるが、これも「される側」が遂行的に判断するものに過ぎない。しかし、「怒ると叱るは違うんだよ!」と主張するのは決まって「する側」である教師である(「怒ると叱るは違うんですよね」と言う子供に未だかつて出会ったことがない)。つまり、この主張は「教師が感情によって子供をコントロールすることは(場合によっては)教育的である」という命題に正当性を与える免罪符としての役割を果たしていると言えるのではないか。

 アドラー心理学では、「怒る」も「叱る」も感情によって相手をコントロールし、手っ取り早く屈服させようとする安易な手段に過ぎない、という点で違いはないとされる。結局のところ「相手のため」ではなく「自分のため」なのだ。だから教師は、叱ったつもりなのに相手にうまく伝わらないとき、「お前のためを思って言ってるんだよ!」という、子供が最も嫌悪する言葉を押しつけるように付け加えざるを得なくなる。本当は誰のためなのかは、「される側」である子供が適切に判断してくれるはずだ。

 

 こうした「する側」の論理として都合良く機能してはいないか、教師のような権力を持つよう(に思われがち)な立場に立つ人間は、常に自覚的であらねばならないと思う。

 

てれびのスキマさんの本。名著です。 

 

2学期スタート

 夏休みの後半も、生徒会担当としての学校祭準備の仕事に追われ、気が付けば新学期。間近に迫った学校祭の準備が本格化すると同時に、授業も再開。まずは1年生から授業スタート(3年生はテストのために授業は来週から)。

 1学期は全クラスALL『学び合い』を実践したが、生徒や周りの先生方からいろいろと話をして省察する中で、長丁場の2学期をどのように進めていこうか、夏休み中は悶々と考えていた。

 

生徒の活動中、教師は何をすべきか?どう過ごすべきか?

 「先生は何もしていない」と揶揄されやすいアクティブ・ラーニング。先生があれこれ動き回ったり声かけしすぎたりすると生徒の活動を阻害してしまうだろうし、一方でもっともっと生徒同士の学びをつないでいくべき必要性も感じている。

 これについては、7月のSORAの会で西川先生ご自身から「いろんな形があっていい」というご意見をいただいた。こうすべきという答えがあるのではなく、目の前の生徒の学びを見取った上で考えなければならないことなのだろう。

 そこで、1か月半振りの1年生の授業では意識的に生徒にポジティブな声かけを行い、久しぶりに味わうアクティブな学びの面白さや意義を再体験させていくことに主眼を置いた。大阪のF先生のように、いずれは生徒を信頼して「じっと見守る」レベルにまで達することが理想だ。

 

「3人に説明する」という課題は有効か?

 1学期続けてきた「~について3人以上に説明してサインをもらう」といった『学び合い』における常套句的な課題について、福島県のなおたか先生はブログで

集団が成長してきたら、「説明する」「サインをもらう」という指示は親切すぎる

と書かれていた記事が目に留まった。また、大阪のとよてつ先生もブログで

「説明する」というのは、結局のところ「方法」でしかないからだ。この課題は、実は理解するための方法を指定してしまっているのだ。だから、このタイプの課題を続けていると、この方法にフィットしない子がストレスを感じ始めて、上手くいかなくなってしまうのだ。

 と書かれていて、考え込んでしまった。

 なるほど、「説明する」「サインをもらう」という課題は何をすればいいかがわかりやすいため、生徒にとっても教師にとっても「ちゃんとやっている」という自己満足に陥り形骸化しやすい。教師側には、その方法すらも信頼して任せる勇気が必要な時期が来ているのかもしれない。2学期スタート直後はこれまで様子を見つつ、課題ももっとシンプルに進化させていきたい。

 

 毎年この時期は学校祭直前のため、合唱コンクールや応援合戦の練習の間隙を縫っての授業となる。一斉授業であればやりにくさや落ち着かなさを感じる場面であるが、『学び合い』の授業の考え方からすれば、授業も合唱も応援も「一人も見捨てずに課題を達成する」という全く同一のアプローチだと言える。そういう意味で、むしろ相乗的に学びの質が高まっていく可能性を感じるところが面白い。

 

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金大竜先生講演会

 地元の民間団体主催の教育講演会に妻と共に参加した。講師は大阪の金大竜先生。金先生はお名前だけは知っていたが、著書は読んだことがなかったので、事前に1冊だけ読んでから当日を迎えた。

www.papajungle.jp

 

 金先生は写真でお顔を拝見する限りではコワモテの方(失礼)かと勝手に思っていたが、第一声をお聴きした瞬間「何と優しい喋り方をされる先生だろう」と感じた。この声に満たされる小学校の教室というのは、それだけでも教育的効果は高いのではないかと想像する(と同時に、こういう声のトーンが与える影響ってやっぱり大きいんだな…と自省)。

 

 まず最初に「テクニックを真似しないでほしい」「やってみてうまくいかなくても子供のせいにしてはいけない」という断りからお話しされたことが印象的だった。その後のお話の中にもテクニック的な要素はほとんどなく、「文脈」や「○○観」といった言葉を多く使われていた事実こそが、教師が本当に学ぶべきものは何なのかということを示しているように感じた。

 

 特に印象に残った言葉は、「認めるとは、変われないことを認めること」というフレーズだ。自分は「子供を認める」などと簡単に言いつつも、結局変わることを強制してはいなかっただろうか。自分自身が変われない人間なのに、それを子供には当たり前のように求めていることがいかに傲慢な振る舞いであることか。アドラー心理学における「信用」(条件付き)と「信頼」(条件無し)の違いにも似ているなと感じた。

 他にも、「20年後に笑えることはOK、笑えないことはダメ」という基準にも思わず膝を打った。そう考えると、大抵のことは20年後には笑い話になるということなのだろう。

 

 穏やかな語り口で、一見優しさに溢れた指導観・生徒観なのだが、そこには金先生の強烈な「焦ってはいけないが、諦めてはいけない」という覚悟が潜んでいるように感じた。

SSTA中日本特別研究会に参加して

 金・土・日の足掛け3日間、SSTA(ソニー科学教育研究会)のブロック特別研修会に、研修員として参加をさせていただいた。京都での初等中等教育アクティブ・ラーニングフォーラムにも行きたかったのだが、この週末は地元でみっちり学ばせていただくことにした。

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 3日間他県の先生方と議論を交わしながら、最終的には中1理科「光」の単元構想と指導案を完成させるというもの。このような研修会には参加した経験がない上に、「教材は生徒が選ぶ」という『学び合い』のスタンスで実践を続けてきた中で「教材ありき」の授業から遠のいていたことあり、自分のような者が参加することにやや気後れを感じていた。しかし、出来上がった教材や指導案そのものよりも、アドバイザーの先生がおっしゃっていた「他人の頭を使って授業を考える」ことの面白さと難しさを強く実感することができた。

 分科会は5~6人程度のグループで、同性のほぼ同世代のメンバーが集まったのだが、先生ごと(もしくは地域ごと)に授業に対しての価値観が多種多様であることに驚きを感じた。例えば、「教材との出会いとそれに伴う生徒からの問題提起」を何よりも大事にするという考え方は、これまでの自分の中では優先順位が高くなかったものであり、議論を深めていく中でその意味や重要性を少しずつ見出すことができた。

 それと同時に、生徒一人一人の学びの入口や興味・関心も多種多様であるのだから、教師側が教材や単元構想を規定することの難しさや限界もあるのではないか、ということもずっと頭をもたげていた。また、「単元を貫く課題」や「探究型」などは研究授業などでよく見られるが、そういった授業が日常的に行えるのかという疑問もある。そうなってしまっては、一体誰のための授業なのかという本質が揺らいでしまう。

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 『学び合い』の考え方を尊重しつつも、こうした教材や単元について深く掘り下げる機会を通じて、教材観や指導観の「引き出し」を増やすことが、生徒の質の高い学びを保証することにつながるのではないか、という思いを新たにした。二項対立的に捉えるのではなく、あくまでも『学び合い』は考え方としてのベースであり、その上にどのような方法を積み上げていくかという部分で今回のような経験が活かされるのだと思う。

 

 参加された先生方、運営に携わられた先生方、誠にありがとうございました。