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「シン・ゴジラ」は面白かったけど心から楽しめなかった

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 妻と息子が帰省してしまったので、夜におっさん1人で「シン・ゴジラ」を観に行った。小さい頃から何度かゴジラ映画を家族で観に行った(特に弟が熱狂的なファンだった)ことから、単純に作品自体に興味があったことも事実だが、それ以上に公開直後からネットに溢れる様々な言説について、ネタバレを気にすることなく読んでみたいと思ったことが直接的な理由かも知れない。

 

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 作品自体はそれはもう面白く、あっという間の2時間だった。これまでのゴジラ映画と一線を画する要素として、「前例のないシビアアクシデントに対する行政側の対応を正確に詳しくハイスピードで描く」というのが挙げられる。この描写を通して、「超映画批評」にもあるように、

日本人の強さとは「個」ではない

ことが、(皮肉も込めて)たっぷりと描かれていた。かつて内田樹先生は、

私はむしろこの種の「政治的空白」がほとんど社会的に不利益をもたらさなかったことに日本社会の成熟と安定を見るのである。
無能な政治家と腐敗した官僚がこれほど跋扈していながら、国境線は確保され、通貨は安定し、法秩序は維持され、環境も保全されている。
これは誰が何と言おうと、社会システムがきちんと機能している、ということである。

と述べた(「奉祝!55年体制復活 (内田樹の研究室)」)。「誰がリーダーになってもあまり変わらない」という状況は、「日本社会は相対的な成熟期・安定期に入った」こととイコールであるということだ。それが日本の強みであり、ハリウッド映画では決して描かれることのない、これぞ日本のゴジラだという面白さにつながっている。実際、エンドロールのキャストも、主役級の3人(とゴジラ役の野村萬斎)を除いては、五十音順で機械的に表記されているだけだ(よくよく見るとすごい俳優さんばかりなのに)。

 

 しかし、とても面白かったのだけれど、「これを楽しんでいいのか?」という心のザワザワを終始感じ続けた。それはこの映画があまりにも「リアル」だったからだ。

 小さい頃に観たゴジラ映画は、いくらビルが倒れようが人々が逃げ惑おうが、あくまでも「フィクション」と子供心にも割り切ることができた。「現実ではそんなこと起こる訳ない」と心から信じることができた。

 しかしそれ以降、2001年にアメリカ同時多発テロが起きた。そして何より、2011年に東日本大震災福島第一原発事故が起きた。日本人は「現実でもそれに近いことが起こりうる」という事実を突きつけられてしまった。ゴジラが海から上陸する際に船や瓦礫が押し流される光景はもちろんのこと、放射性物質を撒き散らす巨大な塊を冷温停止するなんて、メタファーにすらなっていない「そのまんま」である。日米安保を持ち出したり、アメリカ主導で多国籍軍核兵器を使おうとする場面などは、あまりにもタイムリーすぎて見てはいけないものを見てしまっているような気さえした。そして、ラストはゴジラが再度蘇ることを暗示するような不気味な前兆で終わるという描写が、「まだ終わっちゃいないぜ」「さてこれからどうする?」という現代の日本人に対する問いに見えてならないのだ。そんな絶望的とも言える未来をこれから生きていかねばならないことを、そしてそんな未来を我が子たちの世代に託すことを考えると、暗澹たる気持ちになってしまった。

 

 この答えがない問いに対して、どう解決の道をつけていくのか。これからの日本に求められているのは、このような答えがない問いに対して立ち向かっていける人材なのだろう(と、半ば強引に教育の話に結びつける)。

過去問解説作り

 夏休みも早2週間が経とうとしている。今年も3年生担当なので、夏休み中もちょこちょこと補習の授業がある。しかし、いろんな出張や会議などが立て込んでおり、理科の時間は1クラス当たりわずか2時間だけ。これまでは「圧力の計算祭り」とか「オームの法則徹底マスター」とか、いろいろと講座の内容を工夫してみたりもしたが、当然ながら全ての生徒にフィットした内容なんぞ存在しない。まだ夏休みという時期的なものも鑑みて、2時間丸ごとで1つの課題を与えてみた。

  • 班ごとに秋に行われる実力テストの過去問を1回分選択し、班で協力して「解説」を完成させる

 各クラス5班(1班当たり5~6人)編制なので、過去5年分の過去問を用意。班ごとに1回分を選び、まずは一度自力で取り組んだ後、班で協力して解説のプリントを作成することを課題とした。大問は8つあるので、1人当たり1~2つの大問を担当すればいいことになる。もちろん模範解答は事前に配布し、参考にしていいこととした。つまり、これまで教師側がせっせと作っていた解説作りを、生徒に任せてみることにしたのだ。

 こうして5回分の解説が完成すれば、その解説を2学期の授業で活用しながら過去問に取り組むことができる。しかも各クラス1班は実際に一通り解いているので、その班を中心に進めることができる。一石三鳥、四鳥を狙った課題だ。

 

 いざ始めてみると、やはり初めての課題に戸惑い、どんな解説にしていいのか迷う生徒が続出した。そこで、いつもの授業以上に机間指導を入念に行い、「こういう風に書くと親切なんじゃない?」とか「お~そういう風に問題の図を貼って書き込んであげると分かりやすいな」とか、個々への声かけ=全体へのアナウンスを増やすことを意識したことで、少しずつ解説の質が向上したように感じた。

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 生徒たちの活動を眺めていて感じたことは、解説作りには学びの本質が詰まっているということだ。解説作りは、計算問題の計算過程を書くといった単なる説明だけではなく、語句問題であれば混同しやすい語句についての説明や、その問題から派生する内容の紹介など、学びの地平を広げるための考え方を身につけるにはピッタリの課題だと感じた。

 

 わずか2時間の授業で全員をお腹いっぱいにすることはできないし、仮にできたとしてもすぐにお腹は減ってしまう。「エサを与える」のではなく、「エサの捕り方を教える」ことを心がけたい。

「親戚のおっちゃん」

 先日のSORAの会で、上越教育大のゼミ生の方が西川純先生のことを「親戚のおっちゃん」と表現した、というお話をF先生がご紹介された。このフレーズはとても印象的で、その後の懇親会などでもひとしきり話題になった。

 この「親戚のおっちゃん」という表現は、(あの西川先生のことを「おっちゃん」呼ばわりしている!という)ネタ的な面白さだけではなく、なかなか含蓄があって示唆に富んだ表現のように思う。自分の中での「親戚のおっちゃん」というのは、

  • 年に1、2回しか会わない
  • いつも上機嫌(法事とかで会うので大抵酒が入っている)
  • 可愛がってくれてお小遣いをくれたりする(よくFacebookなどには自分の甥っ子や姪っ子を可愛がる写真などがアップされているが、そういう親戚の子というのは、妙に可愛く思えたり世話を焼いたりしたくなるものなのだろう)
  • 何だかよくわからない仕事をしているなど、ちょっと憧れの存在だったりする

といったイメージがある(かなり個人的な経験を含んでいる気もするが)。つまり、直接的な利害関係にない一方で付かず離れずの関係、と言えるのではないか。縦の関係とも横の関係とも少し違う、「斜め上の関係」という表現が一番しっくり来るかも知れない。

 例えば、これが「父親(母親)」だとかなりニュアンスが違ってくる。父親や母親は、子供にとっては一番近い存在ではあるものの、常に評価を下す存在でもある。褒められたり怒られたりなど、強烈な利害関係にあると言える。

 かと言って、ただの「他人」では決してない。距離を置きながらも、困ったり助けを求めたりしていないかを常に見守っていてくれる存在であることが大切なのだ。

 

 最後の夏の大会が終わり、今月から部活動は新チームに切り替わった。新チームは「県大会出場」という新たな目標を掲げ、旧チームから導入した部活動内委員会を継承しつつ、心機一転頑張ろうとしている最中である。自分は顧問(=「ある組織に関与し、意志決定を行う権限を持たないが、意見を述べる役職やその役職に就いている者」byWikipedia)として、あくまでも見守る=「親戚のおっちゃん」の役回りに徹することを心がけている。

 まだ始動して間もないだけあって、練習の手際とか声の大きさとか、口を出したくなる部分は正直多い。ここで顧問が怒ったり細かい指導をしてしまうと、いつの間にか生徒たちにとって顧問が評価の主体であるというヒドゥン・カリキュラムが培われ、悪く言えば顧問の顔色を伺うチームになってしまう(「県大会出場」という勝負事に関する目標を掲げている以上、評価は大会や練習試合などを通じてされるべきであるはずだ)。その一方で、決してただの放任ではなく、「いつでも見てるで」「何かあったら言ってや」という距離感は保っていきたいと考えている。

 

 クラスや授業は夏休み中なので、まずは部活動において「親戚のおっちゃん」であり続けることを目指したい。

大阪『学び合い』SORAの会3回目

 3月5月に引き続き、SORAの会も3期連続3回目の参加となった。今回は夏休みに入ってすぐという時期で精神的にも楽だったが(夏休みでも8月後半とかになってくるといろいろとツラい)、2学期以降の授業の在り方について考えるヒントを得るという覚悟で臨んだ。

 今回はSORAの会1周年を記念して上越教育大の西川純先生が基調講演をされるということで、(いつもより参加費が高額にも関わらず)80名近くの先生方が参加。1年でここまで会を大きくされた、主催者のS先生のご尽力とご人徳には本当に頭が下がる。

 

 西川先生のお話を直接お聴きするのは、1月の高崎セミナーに続いて2回目だった。前回は「なぜ今アクティブ・ラーニングなのか」という”未来”のお話だったが、今回は一転して「なぜ『学び合い』に至ったか」という”過去”のお話をお聴きすることができた(今回は『学び合い』未実践者の先生方が多かったからだろうか?)。西川先生の著書の中に何度も出てくる内容なのだが、本には書かれていない(書けない?)ようなエピソードも多数あり、「生徒を幸せにする」という言葉の重みを改めて噛みしめた。

 また、『学び合い』的な授業形態はこれまでも決して珍しくなかったのだが、その本質を「1人も見捨てない」という表現に収斂させたことで、こうして広く実践が可能になったということにも気付かされた。

 

 実践者の先生方の発表は小・中・高の3校種で行われた(こうして自分と同じ校種の発表があると参考にしやすい)。特に中学校の実践発表をされた大阪のF先生は、新聞などで紹介された記事を読んだこともあり、ぜひお話をお聴きしたいと思っていた方だった。

 F先生は自分とほぼ同世代で、中学校においては所謂「中堅の男性教師」であり、特に生活指導などで中心となることが期待される立場である。F先生は一見中学生にとっては「怖そう」「厳しそう」な先生であり、また発表でお聴きしたような類い希なる卓越した話術をもってすれば、旧態依然とした中学校的な”シメる”指導も機能させることができるのではないかと(僭越ながら)思ってしまった。しかし、一斉授業とは完全に決別してあくまでもフルの『学び合い』を続けていらっしゃるお姿に、同じ中学校教師の端くれとして勇気をいただいた。フリートークでもお話を聴いたところ、「一切怒鳴る指導はしない」「生徒には方法ではなく目的を伝える」ともおっしゃっており、『学び合い』の考え方をあらゆる場面で実践されているということだった。学校内外でのお仕事を精力的にこなされていらっしゃるらしく、「自分も少しでも近付けるように頑張ろう」と心から尊敬の念を抱いた。

 

 その後の懇親会では、西川先生がわざわざ私の前の席まで来られて「何か困っていることない?」とお声をかけてくださり、緊張しながらもいくつかの質問にお答えをいただいた。西川先生ご本人がなぜそこまでされるのか?とも思ったが、この「困っていることない?」の声かけこそ『学び合い』そのものだと気付いた。それを自ら体現されているお姿に、「まず教師が手本を示す」とはこういうことなのだということを学んだ。

 また、西川先生からは「あなたも地元でこういう会を開いたら?」とご提案をいただいた。このSORAの会もこうした西川先生の一言から始まったということなので、自分も背中を押していただいたということなのだろう。不安材料は山ほどあるが、これを契機に真面目に検討してみようか…(S先生と同様、まずは妻を巻き込むというのはアリかも)。

 

 いろんな先生方や院生の方々とギリギリまで懇親会に参加し、22時過ぎに新大阪発の新幹線こだまに乗って、何とか日付が変わる前に自宅に帰還。新幹線を使えば終電が22時台にまで粘れるというということも今回発見した(閉店間際の新大阪駅の551に駆け込んで、妻から要望があった肉まんのお土産も何とか買えた)。

 

 2学期からの授業に活かすことはもちろん、週明けからの部活動でも早速アクションを起こしていきたい。

内田樹先生講演会

 地元の公立図書館主催の記念講演として内田樹先生が招かれるという情報を入手し、妻と2人で一目散に申し込んだ(しかも無料)。定員は200人程度だったらしく、申込開始後あっという間に満席になったらしい。大学時代、ちょうど教職を志そうと考え始めた頃に著書を拝読して「この人を師と仰ごう」「この人についていこう」と勝手に思い込んで以来、10年以上に渡って著書が出る度に追いかけてきたファンの端くれとして、講演の当日を心待ちにしていた。内田先生の表現をお借りすれば、私にとっては10年以上「本やブログを読む」という形を通じて、他の誰よりも(友人や同僚や妻よりも)たくさんの対話をさせていただいてきたお方だということになる。そんなお方に初めてお会いするのだから、否が応にも緊張が高まる。

 

 演題は「本を読むことー人文知の危機をめぐって」(内田先生ファンとしてはこのタイトルだけでもニヤリとしてしまう)。実際にお話をされる様子は、哲学者・武道家といった肩書から連想されるような重厚なものではなく、むしろ「気のいいおじさん」的なそれに近かったことにまず不思議な印象を覚えた。神戸人らしい「関西的なノリ」とも言えるのだろうか。お話は「日本の高等教育(大学の学術レベル)の危機」「教育は商取引ではない」「教育に市場原理やビジネスマインドを持ち込んではいけない」「日本人の知性の劣化は問題ではなく結果である」といういつもの内田節から始まり、それを受けて「読書は他者の視点から世界を見ること」「書物は異界への入口であり、自分とは異なる他者とのコミュニケーションの場」というところに着地した。あっという間の90分間、ノンストップでお話しをされ続けてピッタリ時間通りに終了。よく考えれば90分というのはちょうど大学の講義1コマ分であり、内田先生が大学で長く教鞭を執られてきた生粋の教育者であることを思い知らされた。

 特に印象に残ったのは、質疑応答の時間の最後に1人の女性の「今日はこうして読書好きの方々が集まっているが、実際に本を読まない子どもたちに読書好きになってもらうにはどうすればいいか?」という質問に対するお答えだ。内田先生は、「子どもを大人にするためには、大人が自ら”大人って楽しいよ”というモデルを示せばいい。だから、”本を読むって楽しいよ”ということを大人が伝えていくことが大切」という極めてシンプルな回答を提示された。これこそまさに私が内田先生から学んだ「教育の本質」であり、1人の現場の教育者として試行錯誤してきた部分である。その10年間の試行錯誤の答えが、今の学級・部活動経営や授業スタイルに他ならない。10年経って、やっと少しその本質に近付けてきたのではないかと感じている。

 そして何より、純粋に疑問を抱き、心からの「学びたい!」という思いからこの質問をされた女性の姿こそ、学びに対して広々とした開放性を持ち合わせた「学びの主体」の理想型(アクティブ・ラーナー)なのだと思わずにはいられなかった。

 

 講演終了直後、サイン会の準備までの隙を見てトイレに向かったところ、何と先にトイレに入られていた内田先生と2人きりになってしまった。内田先生の横で暢気に用を足せるはずもなく、緊張のあまりただ直立不動で固まること約1分。トイレを出て行かれる内田先生に思い切って「こんなところですみません!今日はありがとうございました!」とお声をかけるだけで精一杯だった(内田先生はそんな無礼な私にも笑顔で会釈を返して下さいました)。

 その後のサイン会では、最新刊「内田樹生存戦略」に名前入りでサインを書いていただいた。「先程トイレでお会いした者です!中学校の教員をしておりまして、いつも先生の御本から勇気をいただいています!」とお伝えすると、「先生?ああ、確かにそんな感じがした(笑)」とおっしゃっていただいた。内田先生から見て「そんな感じ」というのはどう捉えていいのだろうか???

 

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 聴衆の心をがっちり捉えるオーラや、お話のテンポやグルーヴ感、そして「何だか少し難しいしよく分からないけど学びたい!」と思わせる内容のお話を目の当たりにして、教育者の理想型とは何かということを、内田先生ご自身の姿から体現されているようにも思えた。これまでの10年間の学びを振り返ると同時に、これからに向けての勇気をいただけた1日だった。

 

 

悩める人、いらっしゃい 内田樹の生存戦略

悩める人、いらっしゃい 内田樹の生存戦略

 

 

 

ガスバーナーの使い方

 1年生の1学期ラストは、1年間の理科授業のハイライトとも言えるガスバーナーの使い方。このような安全指導が不可欠な内容において、理科における『学び合い』の難しさがある。

 いろいろと考えた結果、まず1時間目の最初に教師主導で実演をし、必要な安全指導を行った。その後、その時間の残りと2時間目を使って、安全に正しく使えるようになった生徒から1人ずつ教師の前で操作を行い、教師からのOKをもらうという課題にした。生徒同士によるチェックや、iPadで動画を撮影して提出するといった方法では、必要十分な安全が担保できないと考えた(そもそもiPadなどの機器が十分にないという問題もあるが)。

 すると、いつもの課題とは異なり、課題達成の方法が「先生から直接OKをもらう」の1通りしかないため、いつもはあちこちで同時多発的に起こる課題のクリアが単線的になってしまった。したがって、最初に課題をクリアする生徒と最後にクリアする生徒の間に大きなタイムラグが発生してしまい、『学び合い』のメリットが活かされなかったように感じた。もちろん、早く課題がクリアできた人はまだクリアできていない人のサポートに回るように伝えたのだが、それ以上に課題クリアの進捗が間延びしてしまったように思う。

 しかし、必要十分な安全を確保しようと思うと、教師側のチェックを課題に盛り込むことは致し方ないのかな…と思う。そのさじ加減が難しい。

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密度の測定

 中学校理科で初めて本格的な公式や計算問題が登場する密度。「3種類の金属を同定する」という課題を与え、練習問題を解く時間なども含めてたっぷり3時間確保した。密度の公式を理解することはもちろん、質量や体積といった概念の理解や、上皿てんびん・メスシリンダーの使い方の習得など、学習しなければならない内容は多岐に渡る。

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 同僚の先生方とアクティブ・ラーニングについて話していると、「基礎・基本をしっかり押さえてからでないとアクティブ・ラーニングは難しい」という話題になることがある。例えば、理科や社会などは教科書の隅に小さく載っているような細かい記述などもテストや入試で問われることが多い。そのため、そういった問題への対応は生徒主体の活動では難しく、教師側がきちんと教える必要があるのではないかという考え方だ。今回の授業で言うと、「上皿てんびんの分銅はその物体よりも少し重いと考えられるものから置いていく」「メスシリンダーは目盛りの10分の1まで読む」といった、実験器具の細かい操作方法などがそれに当たる。確かにこれまでの一斉授業では、それらの注意点は実験を行う前に教師側から説明を行っていた。

 

 その(中学校特有の?)問題点をクリアするためには、やはり「課題と評価の一致」を徹底させることが重要であると考える。

 例えば、金属の密度を正確に求めるためには、その金属の質量と体積を正確に測定することが不可欠であるため、メスシリンダーの目盛りを10分の1まで読まないと密度の値に大きな誤差が生じてしまう。したがって、実験器具の正しい使い方を理解しないとクリアできない課題になっているのだ。重箱の隅をつつくような細かい内容であったとしても、それは学習を進めていく上で学ぶ必然性があるはずなので(たまにそうじゃない場合もあるが)、課題に盛り込むことは十分に可能であろう。

 さらに、課題の中にその内容を盛り込めない場合は、小テストや定期テストで問うことで評価の対象とするという手段もある。「そういうところまで問いますよ」というメッセージを送り続けることによって生徒の能動的な学びを促すことができれば、アクティブ・ラーニングの要件を満たしていると言えるのではないか。