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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

実験で何を学ぶか

 年度も後半に入り、どの学年の授業も小単元丸ごとの『学び合い』に移行している。1年生は「水溶液の性質」を7時間で全員説明できるように理解する、というのを課題にして取り組んでいる(これまでの小単元では、ガスバーナーの操作や水素の発生などがあったため、安全上の配慮から1~2時間単位の『学び合い』を続けていた)。この「水溶液の性質」の小単元は、まずコーヒーシュガーとデンプンを水に溶かしてろ過をするという実験からスタートする。実際に、全ての班が1時間目にこの実験に取り組んだ。

 この実験は、物質の溶解についての概念形成のためには非常に重要な意味を持つが、作業としては如何せん「地味」である(生徒にとっても教師にとっても)。したがって、これまでは実験の考察(モデル化など)には時間をかけてきたが、実験そのものにはあまり時間をかけてこなかった。また、準備物や操作は何かと煩雑なので、ビーカーなどの器具や材料をあらかじめ教師側で準備をしておき、生徒がスムーズに実験できるように配慮してきたという過去がある。

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 しかし、『学び合い』で生徒に方法を任せてみると、実験そのものの中に数々の学びが含まれていることに気が付いた。

  • 大きなビーカーで多量の水で実験すべきか、小さなビーカーで少量の水で実験すべきか?←定量的ではなく定性的な実験なので(実際に教科書に量の指定はない)、現象を確認できるだけの最小限の水で実験した方が、廃液が少なくて済む上、ろ過の時間短縮にもなる。
  • 加えるコーヒーシュガーの量はどうするか?←ただの砂糖ではなくコーヒーシュガーを使う理由は、溶解の様子を色の変化によって視覚化するため。したがって、その色の変化が十分わかる程度の量を溶かす。かといって、加えすぎると溶かすのに時間がかかったり、全て溶けない可能性がある(小学校での既習事項の活用)。
  • 教科書には「一晩置いた後の変化を観察する」とあるが、翌日が休日などで理科の授業がない場合はどうするか?←一晩置く理由は、数分~数十分オーダーではなく、数時間~数十時間オーダーでの変化を見るため。であれば、一晩以上置いても結果に差はないことが予想される。

などなど、枚挙に暇がない。これまでの授業では、これらの「?」は生徒のスムーズな活動を阻害するものと考え、あらかじめ教師側で準備をしたり先回りして手を打ったりしていた。しかし、これらの「?」に対する答えは全て、科学的事象についての本質的な理解につながるものであることに今回気付かされた。大切なのは実験をスムーズに行うことではなく、こうした「?」に1つ1つきちんと向き合い、省察や対話を重ねていくことで、自らの科学観や自然観を更新していくことではないか。これまで自分は、そういった機会を生徒から奪っていたのかも知れない。

 これらの「?」にきちんと向き合わせるためには、

  • 生徒が方法を自由に選べるようなリソースを充実させること(環境的余裕)
  • 省察や対話を深めたり、失敗したりできるための十分な時間が確保されていること(時間的余裕)
  • そんな生徒の活動に教師がイライラしないこと(精神的余裕)

などの「余裕」が不可欠ではないか、と考えた。

『学び合い』指導案

 校内研究会での代表授業が迫り、そのための指導案作りに着手している。日々の授業同様、『学び合い』の授業を見ていただこうと思ったのだが、いざ『学び合い』全開の指導案を書こうと思うと、どのように書けばいいのか悩んでしまった。いろんなブログなどを読むと、あらぬ誤解を避けるためか、そういった授業では意図的に『学び合い』をしないという判断を下される先生方も多いようだ。実際に、県外の『学び合い』実践者の先生にメールでご相談したところ、

間違っても、『学び合い』をしよう、とか、『学び合い』の良さを見せよう!などの邪念(とあえて表現します)があると、危険かと思います。

 というご意見をいただき、さらに考え込んでしまった。

 

 確かに、『学び合い』ありきの自己満足に陥ってしまってはいけないことは言うまでもない。しかし、今自分が『学び合い』を実践している大きな理由の1つとして、校内研究会のような特別なときにだけ余所行きの授業をするのではなく、日常的にアクティブ・ラーニングを続けたいという思いがあったからだ。そして、実際に今年は4月からフルの『学び合い』を続けているという中で、あえてやり方を変える方がナンセンスである。

 そう考えると、『学び合い』を一切意識しなくても、子どもたちを信じ、多様な学びを保証し、全員が学習課題を達成しようとしたならば、自然と『学び合い』の授業形態に着地するのだということに気が付いた。その思いが指導案の中に表現されているならば、特に『学び合い』という言葉をわざわざ使わなくても済むのだ。

 この点に気付けたことによって、変に力みすぎることなく『学び合い』の指導案を書くことができた。いざ蓋を開けてみると、パッと見は確かに一斉授業と一線を画する部分が多いかも知れないが、自分はこういう考え方に基づいて授業をしているということが自信を持って言えそうである。『学び合い』の考え方がいつの間にか血肉化していたということだろうか。

 

 今回の校内研究会で教科指導にいらっしゃる先生が、昨年度までの子どもたちの学年主任だったという縁もある。彼らの成長を見ていただくという意味でも、これ以上ない機会であると思うとワクワクせずにはいられない。

 

動画に奪われる教師の役割

 行事が一段落し、この1週間は職員同士の授業参観期間だった。理科はもちろん、自分の担任クラスや担当学年の授業はこれまでも日常的に参観させてもらっていたので、今日は他学年かつ他教科の授業を参観させていただいた。

 中1の国語(書写)の授業だったのだが、お手本の書き方を動画で流しているのを見て、なるほど書写だとこういうICTの使い方があるのか、ということに気付かされた。確かに国語の先生でも書写は自信がないという方はいらっしゃるだろうし、小学校なら全ての先生が書写を教える可能性がある。動画なら優れたお手本を繰り返し見せることができ、その間先生の手も空くなど、教師側にとって数多くのメリットがある。

 他にも、特に実技教科においては、こうした動画が絶大な力を発揮することは容易に想像できる。体育の授業であれば、跳び箱などの模範演技を見せることができるし、理科でも正しい実験器具の使い方を見せたりすることは少なくない。部活動だって、例えば運動部ならば、強豪校や有名選手の試合やフォームをビデオやDVDで観たりすることは昔からやってきたはずだ。生徒にとっても、優れた実技を繰り返し見ることができるのだから、メリットは大きいだろう。

 

 では、もし生徒が「先生、ネットにアップされている『走れメロス』の講義動画がとてもわかりやすいらしいので、書写のときと同じように、授業でその動画を流してください」と言ってきたら、我々は一体どうするのだろうか。

 教師の立場としては「実技を見せるのと教えるのは違うのだ」と言いたいところだが、その主張が現代の中学生を納得させることができるとは到底思えない。事実、過去には教師の役割であった「実技の模範を示す」仕事が、特に抵抗もなく(むしろ教師側も歓迎する形で)動画に取って代わられた今、教師にとっての本丸であるはずの「教える」仕事も、動画によって奪われるのは時間の問題ではないか。両者の間に明確なボーダーラインが存在しない以上、「実技の動画は流すけど講義の動画はダメ」と言えるだけの理論武装は極めて難しいだろう。生徒(もしくは保護者)が実際にその願望を口にする日はそう遠くないと思う(というか、もう来ているのかも)。

 

 そう考えると、昨今のアクティブ・ラーニングの趨勢は、流行り廃りなどというレベルではなく、教師という仕事がこれからどこに向かっていくのか、さらには教師という仕事が生き残れるのか、というレベルで議論すべきだと感じずにはいられない。

「自分の席で黙々と課題に取り組む」ことの意義と弊害

 学校という場所では、プリント学習などの課題をする場合、「自分の席で黙々と課題に取り組む」ことが良しとされることが多い。特に、中学校や高校での入試対策期の学習においてはより顕著である。

 

 「入試は独りで受けるんだから、勉強も独りで集中してすべき」という考え方の人がいることは十分に理解できる。であれば、「入試は独りで受けるんだから、協力できるときは仲間と協力すべき」という考え方の人がいることも理解して欲しい、というだけのことだ。どちらも一理あるのなら、どちらの方法が良いかは生徒自身が選べばいいのではないか。

 確かに、「立ち歩きや会話を許せば、遊んだり無駄口をしたりする生徒が出る」という懸念はあるし、実際にそういった生徒が現れる可能性は高い。この考え方こそが、強制的に自席で静かに取り組ませるという方法を選択させるのであろう。

 では、そういった生徒は「立ち歩きや会話を許せば、遊んだり無駄口をしたりする」ことを、いつになったらしなくなるのか。適切な振る舞い方を、いつになったら身につけるのか。今できないのなら、今できるようにするのが我々の仕事ではないのか。

 自転車に乗れるようになるには実際に自転車に乗ってみるしかないのと同様に、そういった場面での適切な振る舞い方を身につけるには、「そういった場面」を実際に経験する以外にはないはずである。教師側から一方的に方法を指定することは、その学びの機会を奪っている、安易な方法に思えてならない。

生徒ができること、教師しかできないこと

 2週間に渡る学校祭期間が終わった。今年は生徒会の主担当という立場で、文化祭全体に係る仕事がたくさんあったため、夏休みからずっと気を張っていた状態だった。毎年こうした行事が終わっていくのは名残惜しいのだが、今年は生徒会が無事終わるのかが心配で「早く終わって欲しい」と思わずにはいられなかった。

 

 1週間前の体育祭では総合優勝を始めいくつかの賞を獲得することができたが、文化祭では無冠で終わった。特に今年は合唱コンクールの練習において、教師側からの口出しを極力せず、あくまでも「見守る」「提案する」だけに留めることを意識したのだが、イメージしていたゴールにまで今一歩届かなかった感がある(あと1週間あれば…という印象)。特に、これまでは男声のパート練習を中心に具体的な指導をしてきたが、今年は生徒からの要請があったときのみ、数えられる回数程度行っただけに留めた。合唱全体への指示も同様であった。その結果、これまでであれば教師が介入していた課題を生徒が自ら解決しようとする姿が増え、部分的な成果はあったと感じている。

 昨日の打ち上げで、合唱コンクールの最優秀賞に輝いたクラスの担任の先生とじっくり話す機会があった(その先生のクラスは前任校から合唱コンクールを6連覇されているらしい)。その先生も、傍目にはあまり生徒に直接的な指導はしていない印象があったのだが、生徒に対しての語りは常に欠かさなかったという。音楽的な技術の向上は生徒同士で可能であるが、一番大切なことを語るのは教師しかできない。この考え方は、『学び合い』授業における「語り」と同じである。「生徒主体の活動」「勝敗にこだわらない指導」というと聞こえはいいが、そのために自分は教師側が本当にしなければならないことまで放棄してはいなかったか。この視点から、今一度自分の教師としての在り方を見つめ直していかなければならないと痛感した学校祭だった。

「他人」から「同僚」へ

 2年連続3年担任として迎えた体育祭。我が青組は優勝候補筆頭と言われていたものの、リレーでのバトンミスなどもありなかなか流れに乗れず、緑組との大接戦に。そして最後の選抜リレーのアンカーを任された男子のエースランナーが、1位でのゴール目前にゴールテープ手前5mで転倒し2位に終わるという信じられない幕切れ。

 最終結果は、まさかの青組・緑組の同点優勝。涙に暮れる女子、転んだ仲間を励ます男子、それらを拍手で讃える全校生徒…担任はただただ唖然とする以外何もできなかった。というより、何もする必要がなかった、と言った方が正しいかも。

 

 転倒した男子生徒は、直後のショックは大きかったものの、最後は「みんなが拍手で迎えてくれて嬉しかった」と話していた(幸いケガは大事には至らなかった)。この言葉を聞いて、『学び合い』のベースとなる

学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場 

 という学校観の中の「同僚」という表現の真意が掴めたように感じた。この経験を通じて、彼は自分の周りにいる人々を「他人」ではなく「同僚」として信頼できることができるようになったのではないか。次の一歩を踏み出す際に、「自分の周りには同僚がたくさんいる」という経験的事実が、彼の背中を押してくれるのではないか。これこそが「成長する」「大人になる」ということではないか。そんなことを考えた。

 

 この「同僚」であることを学ぶチャンスを、行事だけに限定してしまってはいけない。日々の教科学習の中でいかにこのチャンスを増やしていくかということを、突き詰めていかなければならないと思う。

 

 この担任としての思いを、以下のような学級通信にしたためた。

  数々のドラマがあった体育祭。たくさんの名場面がありましたが、一番嬉しかったのは、この3年○組が「チーム」として機能していた場面がたくさんあったことです。周囲の目を気にせずに熱い思いを表現する姿、大縄跳びが苦手な仲間を何とかサポートしようとする姿、そして傷付いた仲間を励まそうとしたり一緒に涙を流したりする姿…。3年○組にとっての体育祭は、当日に至るまでも含めてピンチの連続でした。そういううまくいかない場面だからこそ、本当の「チーム」としての姿が必要だったのです。

 「チーム」というのは、困っている人がいても知らんぷり…では成り立ちません。かと言っていつもべったり仲良し…とも少し違います。必要なときに適切にお互い手を差し伸べることができること。それが「チーム」の条件です。「チーム」の本当の力は、うまくいっているときではなく、うまくいかないときにこそ発揮されるのです。

 「うまくいかなかったときに誰も助けてくれなかったらどうしよう」と思うと、人は思い切って挑戦することができません。中学生がなかなか大人になれない理由は、「周りにどう思われるだろうか」ということを心配しすぎてしまうからです。「何かあってもきっと仲間が助けてくれる」と周りを信頼することができたとき、人は一歩「大人」として成長できるのだと思います。だから、体育祭を経験する前と後では、別人と言えるくらい一人一人が成長することができたと確信しています。

 担任があれこれ口出しをせずに正解でした。あなた方は自分たちでどんどん成長しています。理想の「チーム」に近付いています。この「チーム」の力が、日々の授業や学校生活で、そして目の前に迫った本当に最後の行事・文化祭で活かされることを願ってやみません。

 担任として心から誇らしく、幸せを感じることのできた体育祭でした。優勝おめでとう。

 

行事でのリーダーと教育実習生

 1週間の準備期間を経て、明日は体育祭当日。毎日1時間の応援合戦練習が終わる度に、応援リーダーを集めてミーティング。同時に来週の文化祭の合唱コンクールの練習も並行して行われるため、別の時間には指揮者やパートリーダーも集めてミーティング。リーダーの頑張りを労いながら、集団を動かすためのアドバイスを、時機を見て厳しい内容も入れながら、毎日続けている。今が疲れのピークだが、今年も充実した時間を生徒と共有できている印象を受ける。

 これって何かに似ているな?とずっと考えていたのだが、教育実習生への対応に酷似していることに気が付いた。生徒を子供扱いするのではなく、同じ大人(同業者)の目線で対話をする。こういった大人同士の信頼関係の中だからこそ、生徒は安心して力を伸ばしていくことができるのではないだろうか。「大人扱いすることでしか大人にならない」のは考えてみれば当然のことである。

 行事という一過性の場面では、どの学校でもこうして生徒を大人扱いするのに、日々の授業になるとやはり「教師=大人」「生徒=子供」という対立関係に固執してしまう。いかに授業の中で大人扱いをしていくか、この行事の場面の中にたくさんのヒントが隠されているはずだと考えるようになった(行事も授業も学校教育の一環として行われる以上、根幹にある目的は同じはずなのだから)。

 

 明日は担任が何も喋らなくても(むしろ喋らない方が)実りある行事になる手応えがある。以前はいかに担任が熱血教師然とした方策で生徒を引っ張っていくかばかりを考えていたが、ここ2~3年でやっと少し担任の在るべき立ち位置が見えてきたような気がする。

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