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むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

アクティブ・ラーニングの対義語=一斉授業?

 一足早く卒業した3年生に続き、1年生も全授業が終了した。今考えているのは、アクティブ・ラーニング(『学び合い』)の対義語=一斉授業と言われるけれど、本当にその発想でいいのか?ということだ。
 
 そもそもは、3年生のアンケートの中で行った「『学び合い』と一斉授業のどちらがいいですか?」という問い方に違和感を感じたことが発端だった。例えば、もし生徒全員が主体的に一斉授業という方法を選んだのであれば、「見た目は一斉授業だけどめっちゃアクティブ」という状態だって成立するはずだ。そう考えると、生徒の意見をあまり反映させず、教師側からあれこれ制限を加えていた『学び合い』は、見た目こそ違うが一斉授業の一種とも言える。どんな方法であれ、教師側から全員一律に方法を指定してしまった瞬間にそれは一斉授業だということになるのではないか。
 実際、今年度当初は黒板をほとんど書いていなかったが、生徒からの要望が多かったので年度途中から板書をするようになった。最初は「板書なんて”一斉授業的”なことを今更するのは…」と抵抗があったのだが、それはつまり「黒板を写しちゃダメ」という方法を”一斉”に指定してしまっていたことになる。しかし、「私は黒板を写すのが最も合った勉強法なんです」という生徒の存在も認めなければならないということに気付き、授業の最初5~10分程度を使って板書をするようになった(余裕があるときは休み時間のうちに書いてしまうし、違うクラスで同じ内容の授業が連続である場合は消さずにそのまま残したりしているので、そんなに負担も大きくない)。実際に黒板を写す生徒は少ないが、板書があることに安心感を覚えるのか、多くの生徒に好評である。板書することに抵抗があったのは、「『学び合い』の授業のあるべき姿はこうでないといけない!」と考えていた教師側のただのエゴだったと言う他ない。
 
 『学び合い』の授業は、従来型の授業と形態が大きく異なるせいで、生徒にとっては戸惑う部分が大きいということは多くの実践者の方々が口にされているし、自分自身も強く感じてきたことだ。失敗本の中にも「先生が何もしてくれない」「先生が冷たくなった」という印象を持たれた、という内容があったが、「一人一人に合った方法を選べる」のが『学び合い』なのだから、むしろ”ユーザーフレンドリー”だと言えるはずなのだ。方法や進度などは生徒一人一人が主体的(=アクティブ)に選び取れば、その結果自然と『学び合い』の形になる、という考え方の方が、生徒にとっては理解しやすいのではないか。今年度初めの語りでは、主にキャリア教育的な視点から『学び合い』の有用性を語ったが、生徒にとっては「一人一人に合った学び方を選択できるのが『学び合い』だよ」という切り口で語った方がしっくり来るのかも知れない。もちろんキャリア教育的な視点は教師側にも生徒側にも欠かせないので、機会ある度に語ることは必要だとは思うが、いきなりそこから入っても生徒にとってはピンとこない可能性がある。だから、「一人も見捨てないために、選択の自由を保障するよ」と語った方が生徒にとって抵抗が少ないのではないか。新年度初めの語りでは、そういった切り口からやってみようと思う。
 
私は『学び合い』にこれで失敗し、これで乗り越えました。

私は『学び合い』にこれで失敗し、これで乗り越えました。