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「勉強できる子卑屈化社会」前川ヤスタカ

 

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

  2000年代前半のweb1.0時代の名サイト「Sledge Hammer Web」の運営をされていた前川ヤスタカ氏による教育論。大学時代から前川氏(当時は前川やく氏だった)の文体や視点に多大な影響を受けてきた身として必読の1冊だと楽しみにしていた。

togetter.com

  • 勉強できることがなんだか後ろめたい
  • 勉強できることを隠そうとする
  • 体育できる子はチヤホヤされるのに…
  • 高校などで同質集団の中で埋没すると安心感を覚える
  • 先生からの評価も高くない
  • スクールカーストは比較的低い
  • 学園ドラマなどメディアからもステレオタイプな描き方をされる

Togetterにまとめられている感想からも分かるように、「勉強できる子あるある」が単なる面白あるあるの域を超えてある種のルサンチマンに満ち満ちていることが、この「卑屈化社会」の根深さをよく表している。「こういうもんだ」と思い込んできたれど、よく考えたら勉強できる子どもが卑屈になったり秘匿したりせざるを得ない社会の知的損失は相当なものなのではないだろうか。

日本人が学校の勉強を通じて何を学んできたのか。

これからの日本人が身につけるべき基礎教養はなんなのか。

逆に今の学校の勉強には何が足りないのか。

塾や予備校が産業として成立しているのはなぜなのか。

本来、そういったことを真摯にちゃんとデータを使って詳細に議論すべきだと思うのです。(p.208) 

 という主張は、中室牧子著「『学力』の経済学」と相通ずる部分がある。日本国民全員が学校教育を経験している、しかも義務教育だけでなく中等・高等教育まで受けた人の割合が多いという中で、全員が教育についての個人的感情を声高に叫ぶことが教育を良くすると思っていること、さらにそれが100%の善意から行われていることが、日本の教育を取り巻く最大の問題であるということだ。そんな本質がこの「勉強できる子あるある」から見えてくる。

 

 TVウォッチャーでもある前川氏は、テレビなどのメディアの功罪について1つの章を割いて書かれており、「紋切り型の描き方をするテレビマンには高学歴の人が多い」と指摘されている。同じように考えると、教師自身も(テレビマンほどでないにせよ)高学歴の人が多く、しかもそういった(勉強できる子が卑屈にならざるを得ないような)学校文化の中でうまく立ち回ってきたというか、比較的成功体験をしてきた人が多いように思う。したがって、そういった個人的背景を持つ教師によって、学校という場所での「勉強できる子卑屈化文化」が再生産されているという現実もあるのではないか。

 そういう意味で、

学校の勉強が学生時代にダメでも後から追いつける手段があること。

学校の勉強の進みが遅くともそれが就職などで不利にならないこと。

学校の勉強以外の多種多様な能力も教育上評価すること。

学校の勉強の中でも得意分野を伸ばしたい、というようなニーズにも応えること。

人生のどんな時点からでも学生になり、やり直せること。(p.219)

 という前川氏の提言は、現場に教育に携わる者として身につまされる。現場の末端の立場の中でできることは限られているかも知れないが、真の意味での「文武両道」(=文や武をはじめとする多様な価値を等しく認め合うこと)の実現を目指した実践をしなければいけないと考えた。

「困難な結婚」内田樹

 

困難な結婚

困難な結婚

 

 年末に一度読んだのだが、あまりにも面白かったので、年の瀬に次男が誕生したことをきっかけに改めて精読した。

 「困難な成熟」に続く、ウチダ式「困難な○○」第2弾。この「困難な○○」というタイトルは、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス著「Difficile Liberté」の日本語訳「困難な自由」から取られている。「困難な自由」のまえがきにあるように、フランス語では本来「形容詞+名詞」の語順を取るので、「Difficile Liberté」という表現は本来おかしいのであるが、「白い雪=La blanche neige」のように、名詞のうちに含まれる性質を表す付加形容詞の場合は、形容詞が名詞の前に来る。つまり、「困難な結婚」という表現には、結婚はそもそも困難なものであり、「容易な結婚」というものは存在しない、というニュアンスが含まれている。そして、この含意こそがこの本の全てと言ってしまっていい。

結婚というのは、「自分には理解も共感も絶した他者」と共に生活することです。「おのれの賢しらの及ばない境地」に対する敬意と好奇心がなければ、なかなか継続することの難しい試練です。(p.101) 

  2人の子供の親になって強く感じたのは、我が子でも「他者」である、ということだ。血を分けた我が子ですら、何を考えているかよく分からないし、イラッとしてしまうことだってよくあるし、もちろんコントロールするなんて絶対に無理な話だ。でも、そんな他者に過ぎないのに、「この子のためなら命を捨てられる」と思えてしまうという、不思議な感覚が存在するのだということを、親という立場になって初めて知った。

 我が子ですらそうであるのに、ましてや教師が人様の子どもに対して「あの子はこういう子だから」と決めつけたり、コントロール下に置こうとしたりするのは、あまりにも「敬意と好奇心」を欠いた行為に思えてしまう。

 

 その他、内田先生の金言を備忘録的にメモ。

目の前にいる人よりももっとましな相手がいるんじゃないか、ここで手を打ったらあとで後悔するんじゃないか……というのは「自分はこんな程度の人間じゃない」という自負の裏返しです。今の自分が受けている社会的評価はこの程度だけど、ほんとうはこんなもんじゃない。ほんとうはもっとすごいんだという自己評価と外部評価の「ずれ」が「こんな相手じゃ自分に釣り合わない」という言葉を言わせている。(p.24)

「仕事がつらいのでじっと我慢しているのだが、仕事をさせるとたいへん有能である」という人にあったことがありますか。僕はありません。仕事の90%くらいは他者とのコミュニケーションです。適切なメッセージのやりとりをすることを「仕事をする」と言うのです。コミュニケーションが適切にできない人に仕事がてきぱきとこなせるはずがありません。(p.48)  

葛藤というのは「喉にささった小骨」のようなものです。いつも気になる。でも、人間の身体はその小骨を溶かす消化液を絶えず分泌していますから、気がつくと小骨は消えてなくなっている。小骨は消化液の分泌を促進するひとつのきっかけでもあったということです。(p.52)

誰にも制約されない生き方って、言い換えれば「誰からも頼みにされない生き方」ということですよね。あなたを頼り、「あなたがいないと生きてゆけないんです」とすがりつく人が一人もいない生き方をするということです。(中略)そういう人物を目指して自己造形したいと願う人って、ふつういないと思います。僕たちは「人から頼られるような人」になろうと思って、子どもの頃から努力してきたんじゃないですか?(中略)そういうふうに「頼られる」人間であることが、社会的な成熟度や能力の指標であるのではないですか?(p.142-143)

 

 全体的に割とフレンドリーなお悩み相談の形式で構成されているが、最後の最後、福沢諭吉の国家論と結婚を対比しながら、内田先生が突如厳しい表現をされた言葉が、一番印象に残った。

結婚してるのに他の人を好きになっちゃったのですけど、どうしましょうというような寝ぼけた質問をしてくる人に僕が申し上げたいのは、そういう薄っぺらなことを平気で口にできるような人は、もともと結婚生活向きじゃないということです。(中略)別に結婚しなくてもいいじゃないですか。(中略)誰からも文句言われない気楽な生き方をすればいいじゃないですか。なんで、「その上」 結婚までしたいんですか?僕にはそれがわからない。(p.262)

 内田先生から「成熟せよ」「大人になりなさい」と喝破されているようで、身につまされるながらも痛快なラストだった。

今年の1冊「小説」「教養書」「教育書」

 早1年が終わろうとしている。読書メーター上で集計してみると、今年1年で読んだ本は111冊。おそらく『学び合い』関連本がかなりの割合を占めていると思うが、『学び合い』ついて深く学ぶことで、「自分が向き合わなければならないのは、表面的なテクニックではなく根本的な考え方や哲学である」というパラダイムシフトが徐々に腑に落ちてきたおかげで、読む本や印象に残った本の趣向も徐々に変わってきたように思う。

bookmeter.com

 

小説

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

 

  隣のクラスの学級文庫で見かけたので手に取ってみた。おそらく高校か大学の頃にも一度読んだのだが、小難しい話だったような気がする、くらいの記憶しかない。本を貸してくださった先生から「この本に出てくる中学生って、ちょうど先生と同い年くらいですよね」と言われて改めて読んでみたところ、発表から10年以上経過しているはずのにリーダブルさが全く失われていない、それどころかよりリアリティが増していることに驚愕した(インターネット技術に関する内容についてはもちろん時代遅れの部分が多々あるが)。村上龍の慧眼に感服する。

この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。

というセリフは、この10数年でより重みを増してしまっている。

今の日本の社会にはリスクが特定されないという致命的な欠陥があります。2、3パーセント程度の確率で起きる中小規模のアクシデントやクライシスに対するリスクの特定はできているんだけど、0.000001パーセントの確率で起こる超大規模のアクシデントやクライシスに対しては最初からリスクの算出はやらなくてもいいということになっているんです。

というセリフに至っては、何で3.11が起きるって知ってるの?という気持ちになった。

 この物語のような、目に見える形での「エクソダス」は幸いにして起きてはいないが、本来なら十分に「エクソダス」を起こすべき機能不全に陥ったシステムに子どもたちも大人たちも未だにしがみついているのならば、現実は物語以上に不幸だ。

 

 今年刊行された小説の中では、森絵都みかづき」が面白かった。西加奈子「サラバ!」以来のスケールの大きさを感じた。

みかづき

みかづき

 

 

教養書

好きなようにしてください―――たった一つの「仕事」の原則
 

  内田樹先生の書評が詳しいので、「何もない」があるというブログをよく読む。そのブログで絶賛されていたので読んでみた。

nanikagaaru.hatenablog.com

 一言でまとめると、(主にビジネスに関する)あらゆる質問に対して「好きなようにしてください」と回答する、というそれだけの本。そう考えると、アドラー心理学も『学び合い』も、一言にまとめるならば「好きなようにしてください」という言葉に集約されるような気がしてきた。つまり、「好きなようにしてください」=「あなたの決断を信頼していますよ」=「あなたのことを尊重していますよ」ということに他ならないからだ。

 単純に文章表現も面白いので、思わず膝を打つような言葉が頻出する。年が明けたらもう一度読み返してみたくなってきた。

 

教育書

学校でしなやかに生きるということ

学校でしなやかに生きるということ

 

  ハウツーが載っているような教育書とは一線を画す内容。現代の学校の在り方についてメタ認知的に捉えたエッセイ集、といった感じ。

 謝罪会見ばかりだった今年の世相を引き合いに出すまでもなく、年を追うごとに窮屈になる今の日本において、「余白を確保する」「多様性を保証する」といったことを、まず学校という場所ができているだろうか?という問題提起は、今の自分にとってこの上なくタイムリーなものだった。そして、この本を読み終えた直後に、実際に石川先生にお会いできたのも大きかった。石川先生のお姿やお話を目の当たりにして、「しなやか」の意味をより強く実感できたように思う。

 

 ここまで書いて、今年は科学書をほとんど読まなかったことに気付いた。理科という学問そのものよりも、「理科という学問を利用してどのようにして子どもたちを大人にするか」という考え方に興味がシフトしつつあるからだろうか。とは言っても、まずは教師自身が自分の専門教科について見識を深めようとしない、というのはあってはならないので、来年はちょっと意識的に読んでいきたい。

世の中の大抵の疑問と答えはYahoo!知恵袋にある

 3年生は大単元「地球と宇宙」に入った。最初の小単元「宇宙の広がり」は、宇宙や太陽系についての調べ学習的な要素が強い内容なので、いつもの理科室ではなくパソコン室で授業を行っている。1人1台のパソコンが自由に使えるので、フリーソフトmitaka」を使って銀河系や太陽系について調べるなど、生徒たちは興味津々で学習を進めている(余談だが、宇宙というと生徒たちは決まってすぐにブラックホールについて調べたがる。ブラックホールの何がそこまで中学生を引きつけるのかと毎年疑問に思う)。

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 この小単元の中で生徒にとって混乱しやすい内容の1つとして、「銀河」と「銀河系」の違いを区別する、というものがあるが、パソコンが自由に使えるのでgoogleなどで検索して課題を解決しようとする生徒も少なくない。「銀河 銀河系 違い」といった語句で検索すると、ほぼ100%に近い確率でYahoo!知恵袋のページが上位に表示される。毎年何十万人の中学3年生が同じ内容を学ぶのだから、同じような疑問を過去の先人たちも当然抱いているのだ。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 先月、1年生の「状態変化」の小単元で登場する枝付きフラスコについて、ある班から「先生、これって『えだつき』って読むんですか?『えつき』って読むんですか?」という質問を受けたことがある。「枝」という漢字を「え」と読むことは通常ないので(だから教科書にも読み仮名が振られていない)、なぜそんなことを疑問に抱くのか訝しく思いつつも、理科室にもパソコンが1台あるので「折角だからパソコンで検索してみたら?」と提案したところ、「枝つきフラスコの読み方を教えてください!『えだつき』?『えつき』?両方可ですか?」というそっくりそのままドンピシャなYahoo!知恵袋のページがヒットして、思わず笑ってしまった。しかもご丁寧に、

そもそも”枝”は「え」とは読みません(読ませる場合もあるが本来は間違いで、”柄”と混同しているのではないかと思われる)。

という誤解の原因まで看破されてしまっていた。

Learn from the mistakes of others. You can’t live long enough to make them all yourself.
他人の失敗から学びなさい。あなたは全ての失敗ができるほど長くは生きられないのだから。

という英語の名言を思い出した。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

 ちょうど今、飯間浩朗著「辞書を編む」という国語辞書の編纂作業についての新書を読んでいる。その中で、現物の入手困難な百科項目(この本の中では例としてアサイーが挙げられている)についての語釈を作成するときに、インターネットで検索をして情報を集める、というエピソードがあり、最後はこう締めくくられている。

ネットに頼りきってはならないのは当然です。しかしまた、インターネットという道具があるのに、それを活用しないのは、怠慢のそしりを受けるでしょう。 

 

 学校文化とネット社会は何かと食い合わせが悪いが、子どもたちは将来ネット無しでは生きられない以上、授業の中で正しい使い方や距離の取り方を学ぶことこそが大切なのだと痛感した出来事だった。

 

辞書を編む (光文社新書)

辞書を編む (光文社新書)

 

 

自分で選んだことは、やる

 1年生は小単元「光の世界」丸ごとの『学び合い』に突入。様々な実験に加えて光の反射・屈折・凸レンズの作図もマスターしなければならないので、過去最長の9時間を確保した。

 この小単元の実験は、理科室のカーテンを閉めて電灯を消し、暗室にした上で行う必要がある。これまではクラス全員が同時に実験を行っていたので問題がなかったが、9時間にも渡って生徒に任せると、当然ながら実験を行うタイミングは班ごとにバラバラになる。ある班が暗室にして実験をしようとしても、他の班は明るい中で作図の問題をしたい、という事態が生じるのだ。室内は完全な暗室にはならないにしても、実験以外の作業はかなりやりづらくなってしまう。

 このデリケートな調整を、教師がやってしまっては勿体ない。「電気を消したかったら先生の許可を取る必要はないけど、クラス全体の許可は取ってくださいね」と最初に伝えておいた。すると、作図が終わって次の実験に移ろうとした女子の班が「消していいですかー?」と全体に呼びかけた。他の生徒は「まあ仕方ない」という感じで応じ、電気が消された。こうなると、電気を消した女子の班はクラス全体をリードして実験を行う責任が生じる。わざわざ全体にお願いまでした手前、”やらなくてはいけない”状況に追い込まれるのだ。

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 その後、作図をしていた他の班が「隣の理科室に行ってもいいですか?」と許可を求めてきた。使っていた理科室の隣にはもう1つ理科室があり、その時間はたまたま他に使っているクラスがいなかったので、その明るい理科室で作図の問題をしたいという判断だった。断る理由がなかったので、「授業終了5分前には戻ってくること」という条件で許可をしたところ、複数の班が隣の理科室へ移動して作図の問題を行っていた。これらの班も自分たちで許可をもらった手前、”やらなくてはいけない”状況を作り出したことになる。

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 そう考えると、仲間に「ねえ、教えて」と声をかけることも、それを自分で選んでいる、ということになる。「教えて」と自分から言ったからにはもう”やらなくてはいけない”のだ。自分自身で選ぶことによって、自分自身で責任を生み出しているということだ。

 もちろん、自分で決めるのではなく他人に決めてもらった方が楽である(例えば「黙ってノートを写す」「教師の指示通りに実験をする」とか)。しかし、人間は自分で選んだことだからこそ、自らの責任でやろうと思うのではないか。考えてみれば、大人というのは自分自身でで選ぶことの連続だとも言える。その経験をさせるのが学校という場所の役割なのではないだろうか。

 

 今年は昨年同様3年生担任という立場なので、この時期は進路決定に向けての三者懇談の真っ最中である。生徒一人一人といろいろな話をするが、最後にはどの生徒も「決めるのは先生でも親でもなく、あなた自身ですよ」という一言で終わる。それなのに、我々は普段の学校生活の中で「生徒が決める」という場面をどれだけ設けているだろうか?教師側の都合で決めたことを一方的に押しつけてばかりではないだろうか?と自問自答せずにはいられない。

システムチェンジ

 先週2学期期末テストが終わり、どの学年も新しい(小)単元が始まる。土曜日のSORAの会でいろいろなアドバイスをいただいたことも受けて、このタイミングで『学び合い』のシステムを少し見直すこととした。

 

1.可視化用名簿の巨大化

 これまで行ってきた小単元丸ごとの『学び合い』では、多ければ8~10時間近くに渡って「小単元丸ごとについて全員が説明できるようになる」という大きな課題を達成することを求めてきた。したがって、『学び合い』のセオリーである「課題が達成できた人は黒板のネーム磁石を裏返す」といった方法では、ほとんど可視化の意味をなさないという問題が生じていた。そこで、小単元をさらにいくつかの内容に分け、その1つ1つをきちんと説明できるようになったら、黒板に貼ってある名簿の自分の欄に、課題を達成した日付を書き込む、という方法を取り入れてきた。しかし、名簿がA4サイズであるため教室全体から全く見えず、可視化の効果がないというのが実情であった。

 そこで、職員室にある拡大コピー機で名簿をA0まで拡大し、それを黒板に貼ることにした(拡大していたら他の先生に見られて何に使うのかと訝しがられた)。

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 この大きさがあれば、誰がどこまで課題が終わっているのかを、遠目にも知ることができる。また余談ながら、日付がすぐに分かるようにと思い、黒板の隅にキングカズの名言日めくりカレンダーもぶら下げた。

 ミドルスパンやロングスパンで『学び合い』を実践されている先生方は、どのような具体的方策で可視化をされているのか、興味があるところだ。

 

2.実験用班の自由化

 これまでは、実験を行う際の班のメンバーは、教室で決まっている座席を元にして、固定された3~4人で行っていた。火や薬品を使うなどの場面での安全を担保するため、また実験器具の数に限界があるためなどが主な理由である。しかし、今回1年生も「光の世界」という比較的安全上の問題が少ない小単元に入るということもあり、「1人も見捨てないという目標を達成するために」「3~5人の範囲内ならば」「器具の数や場所などの問題を勘案した上で」班のメンバーを自由に設定してよいというシステムに変えた。もちろん、授業の前に「なぜこうしてシステムを変えるのか」という語りは丁寧に行った。

 

 教師ができるのはこうしてシステムや環境を整えることまで。その枠の中で生徒たちがどう動くかは、あくまでも生徒自身が決めること。すぐに成果に表われることを期待してしまいがちだが、落ち着いて待つことのできる教師でありたい。 

大阪『学び合い』SORAの会4回目

 4ヶ月振りの『学び合い』SORAの会。今回はこれまでのセミナーなどでもお世話になったF先生や、同じ中学校理科で実践をされているU先生のお話がお聴きできるということで心待ちにしていた。これまでの枚方とは異なり、東大阪での開催。大阪東部に生まれて初めて足を踏み入れた。

kokucheese.com

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 まずは教育課程、カリキュラム・マネジメントという観点から、Sさんからのお話。懇親会でもお話をお聞きしたが、「授業の中で変えられることは限られている」「授業後の研究会では一斉授業の指導法についてあれこれ議論されることが多いが、日本の一斉授業にどれだけ伸びる余白が残っているのか」という考え方から、授業のさらに外側の教育課程そのものに目を向けるという観点はとても新鮮だった。現場の教師は常々「授業で勝負」と言われるように、まずは自分自身で日々コントロールできる授業をどうするか、ということばかりを考えているだけに、そういう見方があるということにとても興味が沸いた。また、ワークショップ自体が『学び合い』方式で進められたことも、参加者の方々と学びを深められた一因だと思う。

 次に、F先生とU先生による『学び合い』実践発表。F先生のお話はいつお聴きしてもグッと心が引きつけられるのは、その『学び合い』の考え方(哲学と言ってもいいかも)が揺るぎないものだからだろう。その上で子どもたちに語るのだから、子どもたちは安心して『学び合い』に向かえるのだと思う。

 U先生は、校種・教科のみならず、年齢や『学び合い』を始めた時期、『学び合い』に至るまでの経緯や悩みなども含めて、自分と重なる点があまりにも多く、感動すら覚えてしまった。逆に自分と大きく異なる点は、『学び合い』によって明確な結果を出されているところだ。懇親会でもいろいろとお話を聴かせていただいたが、きちんと『学び合い』の考え方に共感した上で、セオリー通りに丁寧に実践をされているからこそ、実践期間が短くても結果に結びついているのではないかと感じた。その丁寧さが自分には足りない部分なのだと思う。

 

 今回は発表された3人の方々は、ちょうど自分より少し年上のいわゆる「中堅」世代。U先生は今回が初めての発表経験だということだが、とても勉強になったとおっしゃっていた。次回以降、私も参加するだけではなく、発表側に挑戦してみようという勇気をいただけた会だった。「何を語るか(語れるか)」を意識することで、日々の実践を見直していきたいと思う。