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地方中学理科教師/アクティブ・ラーニング/『学び合い』/アドラー心理学/コーチング/

I can't live without you

 いつの間にやら2月に入り、担任しているクラスの卒業式までの授業日は残り30日を切った。今担任しているクラスは、授業を担当している複数のクラスの中で、最も『学び合い』の考え方が浸透しているクラスである。週に数回しかない理科の授業だけでなく、日々の学級活動の中で担任としての考え方を伝えているので、当然と言えば当然かも知れない。しかし、突然飛び込みでやって来た得体の知れない担任の、初めて体験するようなちょっと変わった授業に対して、1年間に渡って理解を示して力を尽くしてきたのだから、担任として感謝の気持ちしかない。

 この時期になると、年度末の生徒会誌やPTA広報誌に載せるため、クラス全員で寄せ書きを書くように要請が来る。デザインなどの大枠作りは既に進路が決まった生徒にお願いし、受験勉強の合間を縫って各自が自分の欄を埋めていく。

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 こういった寄せ書きには「楽しかった」とか「ありがとう」などといった言葉は割と定番だが、今年は「ごめんなさい」と書いてある生徒が多いことが印象に残った。もちろん深刻な「ごめんなさい」ではなく、日常のちょっとしたことに対する「ごめんなさい」なのだが、個人的にこういった寄せ書きではあまり見たことがなく、あまり似つかわしくない言葉では?と一瞬思ってしまったのだった。

 しかし、「ごめんなさい」が言えるということは、自分が助けてもらった、迷惑をかけたという自覚があり、その事実を認めることができている、ということに他ならない。ある先生が、「コミュニケーション能力を一言で表すと?」という問いに対して「いつでも誰にでも『ありがとう』『ごめんなさい』が言える力」だと答えていて、あまりにも正鵠を射た表現に目から鱗が落ちた経験がある。そういう意味で、衒いもなく「ごめんなさい」と言えるということは、「ありがとう」以上に成熟した人間関係を表しているのではないかと思えたのだ。

 

 「誰にも頼らずに自分で何でもできる、100%自己決定をするスタンドアローンな生き方をする」ことが大人だと思われがちだが、逆に「I can't live without you」の"you"にどれだけたくさんのメンバーをリストアップできるかが大人の要件であり、社会的な成熟度や能力の指標である、というのは内田樹先生の常套句である(「ひとりでは生きられないのも芸のうち」というご著書があるくらいだ)。「私は誰にも『ありがとう』も『ごめんなさい』も言わなくてもいい人生を送るぜ」という生き方は一見カッコいいように思えるけど、それは裏を返せば「私は誰からも『ありがとう』も『ごめんなさい』を言ってもらえない」生き方をする、ということだ。そういう意味で、「ありがとう」「ごめんなさい」が自然と言えるクラスというのは、『学び合い』的にも一つのゴールなのかも知れない。

 

 …というようなことを、明日久々に学級通信に書こう、と思いながら寝ることにする。

 

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

 

 

リヒテルズ直子氏講演会&ワークショップに参加して

 2週連続大阪遠征2日目。箕面子どもの森学園で行われたリヒテルズ直子氏講演会&ワークショップに参加。箕面子どもの森学園に行くのも初めてだったし、阪急千里線に乗るのも初めてだった。北千里駅からちょっと歩けば着くかな、と思ってたら思い切り逆方向に結構な距離を歩いてしまっていた。学園のHPに掲載されている道案内が非常に役立った。

kokucheese.com

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 リヒテルズ直子先生については、つい最近苫野一徳先生との共著「公教育をイチから考えよう」を読んだだけ、という極めて不勉強な状態で当日を迎えた。参加者の方々はオランダのイエナプラン教育に興味を持って学ばれたり実践されている方々が多く、こういったコミュニティが存在することが自分にとって新たな発見だった。前日のNEXT教育フォーラム同様、現場の先生以外の方々が半分以上を占めていたように思う。

 

 講演は今のヨーロッパでの教育の現状についてのお話から始まり、途中からイエナプラン教育の実践例として模擬授業形式のワークショップが行われた。内容はロールプレイを取り入れた道徳やディべートで、それら自体は日本でも決して珍しいものではなく、やってる先生はやってるよな…という印象を受けた。しかし、あくまでも先進的な取り組みとして一部の先生方が個人的に行っていることが多く、組織的・体系的に行われていることは少ない。また、大学での教員養成課程でこういった実践を学ぶこともほとんどないだろうし、さらに現場に出てからOJTとしてキャッチアップできるような機会が十分保証されている訳でもない(こうして時間とお金をかけて自分から学ぶしかない)。結局、ここでも前日のNEXT教育フォーラム同様、「教師が多忙で余裕がない」という現実にぶち当たることになる。

 

 また、講演の終盤でワールドオリエンテーションによる授業の進め方についても紹介され、マインドマップからテーマとなる課題を選ぶ場面で、教師は学習指導要領を熟知しているという立場から、子どもたちが必ず学ばなければならないことを学べるように配慮をする、というお話があった。しかし、中学生にとって大切なのは「学習指導要領の要件を満たしているか」ではなく「テストや入試で点が取れるか」だよな…と感じてしまった。アクティブ・ラーニングも含め、こうした授業形態に興味・関心を持ち、実践してみたいと考えている現場の先生方は決して少ない訳ではなく、むしろ多数派ではないかと思う。しかし、受験で点を取らせることを優先させねばならない現状から、旧態依然とした授業から抜け出せないという現実があるのかも知れない。前日のNEXT教育フォーラムでも、現役の高校生が「今の5教科の授業はあまり好きではない。『正解がない課題』に取り組みたい!」と発言されていたが、「先生だってそうしたいけど、現実はね…」という思いを抱いた現場の先生方は多いのではないだろうか。

 

 つまり、今の教育現場が抱える様々な問題の原因は、突き詰めていけば

  • 教師が多忙で余裕がない
  • 受験で点を取らせなければならない

という2点に収束していくのではないだろうか。そういう意味で、教師の多忙化について親玉的存在の部活動という制度を有し、高校入試という極めて重大な進路選択を控える中学校の現場が、最もその歪みが大きいと言えるのかも知れない。

 逆に言えば、その2点が改善の道を歩んだ場合、カリキュラムや授業形態の改革は、意外と加速度的に広まっていくのではないだろうか。実際に、部活動の休養日を増やすなどといった具体的な改善策は徐々に示されつつあるし、いよいよ入試改革も行われようとしている。時代の趨勢は確実に追い風であると言える。

 もちろん、外部から変えてもらうのを待つのではなく、現場でできることはどんどんしていかなけれればならないのは言うまでもない。教師の業務を精選したり、生産性を向上させていって、多忙化を軽減していくことは急務だろう。また、現行の入試制度で点を取らせつつ、かつアクティブ・ラーニングを実践していくためには、『学び合い』は一つの答えではないかと思う。

 

 …といったような取り留めもない感想を懇親会でリヒテルズ直子先生に直接お伝えし、さらに「じゃあオランダの教師の勤務形態や受験制度ってどうなっているんですか?」とあまつさえ質問までしたところ、「それはぜひ本を読んでくださいね」とアドバイスをいただいてしまった。おっしゃる通り、勉強が足りませんね。

 

 今回の大阪2日間は、普段とは異なり現場の外からたくさん刺激をいただいた。昔は「学校を民間と同じにしちゃいかんよな」という聖域観のような感覚を抱いていたけど、そういう二項対立的な単純な話ではないということにやっと気付けてきたように思う。そうした新たな視点から、日々の実践を見つめ直していきたい。

 

公教育をイチから考えよう

公教育をイチから考えよう

 

 

NEXT教育フォーラムに参加して

 2週連続大阪遠征1日目。大学時代の知人に誘われて、大阪は梅田で行われた「NEXT教育フォーラム」に参加。主催団体であるGlobal Shapers Community Osakaについてほとんど何の知識もないまま参加したところ、オープニングで「ダボス会議」などという言葉が飛び出し、何だか場違いなイベントに来てしまったのではないかと嫌な汗をかくところから始まった。

globalshapersosaka.org

 

 よく考えれば、職場にせよ各種研究会にせよ、普段から同業者のコミュニティの中にしかいないため、こうして民間主導のイベントに参加するというのは極めて貴重な体験だった。『学び合い』やアクティブ・ラーニングの背景を学ぶ中で、これからの社会情勢や雇用形態、ICTやAIといった技術革新などについては多少読んだり聞いたりしてきたつもりではあったが、それらの最先端に日々携わられている方々から直接語られる未来は、これまで自分が感じていた以上にワクワクするものだった。教育業界にとっては「変化=悪!」「子どもたちの未来=不安!」という文脈で語られがちだが、決して悲観的なことばかりではなく、むしろさらに多様性・可能性が広がっていくという捉え方をした方が自然だし面白い!と確信した。そして、これから来るべき社会の在り方を本気で考えたならば、「アクティブ・ラーニングっつっても今のままでいいですよ」とか「とりあえずちょっと話し合いの時間を入れてお茶を濁しましょう」レベルの対応で済ませることは犯罪的であるとさえ思った。

 思い返せば両親とも公立学校の教員で、自らも幼稚園から小・中・高・大に至るまで全て公立という半生を過ごす中で、「私企業的なもの」「市場原理的なもの」に何となく距離(嫌悪感?)を感じた結果として、自分は公立学校の教員という道を選んだとも言える。今回、民間主導のイベントという印象から、「教育の目的=自己利益の最大化・私利私欲の追求、みたいな話にならないといいけど…」と勝手に身構えていた節もあるのだが、登壇者やスタッフの方々からそのようなメッセージを感じることは一切なく、「この世の中(日本)を良くしたい!」という純然たる熱意から、こうしてアクションを起こしておられる方々がいらっしゃるのだということを知り、自らの邪推を恥じるばかりであった。

 

 どの方々も、民間というお立場から「何とか日本の教育を変えていきたい」「そのために学校の力になりたい」という点は一致しているのだが、なかなか学校側に浸透していかない、変わっていかないというのが実情のようだ。その理由として、

  • 民間だと学校教育としての質の保証が難しい
  • 教師のロイヤリティが奪われてしまう

という2点が挙げられていたが、それ以外にもっと単純で根本的な

  • 教師が多忙で余裕がない

という理由もあるように思う。どの学校も「外部の力を借りる」ということ自体は大いに歓迎する土壌はあるし、実際の教育効果も大きいだろう。しかし、例えば出前授業をお願いしようと思ったら、そのための外部との折衝や打ち合わせ、授業時数の確保や事前・事後指導など、学校側の負担は増大することが目に見えている。物凄く悪い言い方をすれば、そうやって外野に”掻き回される”のはちょっと…ということだ。学校や先生を少しでも助けようとして行ったことで、逆効果になってしまっては意味がない。

 昨今問題になっている部活動の負担についても状況は似ている。部活動には外部指導者登録という制度があるが、部活動が教育活動の一環である以上、外部指導者には学校の教育方針や顧問の指導方針について十分理解してもらう必要がある。その要請に同意してくれる人にしかお願いできないし、仮にそういう人が見つかったとしても、指導方針の擦り合わせに相当な時間とエネルギーを要する。「だったら自分でやった方が早いじゃん」となるのは自明だ。

 もちろん、多忙化ということに関しては学校の自助努力がまずは欠かせない。何人もの方がおっしゃっていたが、「何十年ぶりに母校に行くと、自分の頃と何も変わっていないことに驚いた」「先生の仕事を調べてみると、書いて写すとかプリントを数えるとか、『先生がしなくてもいい』という仕事が多い」という化石化している現状を、自らの手で変えていかなければならないことは言うまでもない。むしろ、そういった効率化こそ、民間のお家芸とも言える部分なのだから、気取らずにどんどん協力をお願いすべきではないか。

 実際に教育改革は待ったなしだし、こうして「力になるよ」と言ってくれる民間の方々はたくさんいらっしゃるし、学校だってまんざらではないのだ。今回のイベントのように、お互いが腹を割って本音をぶつけ合えば、必ず持続可能な落としどころがあるように思う。

 

 フォーラム全体を通じて最も印象的だったのは、箕面高校校長・日野田先生がおっしゃった「とにかく前向きに考えよう」「悪口を言っても何も変わらない」「私は『チャレンジして』と言うだけ。責任は自分が取る」という一連のフレーズだった。こうして教育者にとって何より大切な、Happy-Go-Luckyに生きる大人のロールモデルを子どもたちに提示することを自ら体現されているお姿こそ、何より見習わなければならないのだと感じた。この校長(上司)ー教諭(部下)という関係は、そのまま学級や授業における教師ー生徒の関係と相似形であることを改めて思い知らされた。

 

 最後まで場違い感が抜けないままだったが、場違いな立場だからこそ、普段とは違う角度からの学びが多かったかなと思う。登壇された方々、スタッフの方々、誠にありがとうございました。

大阪『学び合い』SORAの会5回目~発表者として参加して~

 2か月に1度開催されている大阪『学び合い』SORAの会に、毎回ではないがコツコツ参加をさせてもらってきてもうすぐ1年が経つ。いろいろな方々のいろいろなお話を聴かせていただくにつれて、自分もこの辺りで…と思い、機会をいただいて実践発表をさせていただいた。「うまくいってます!」などと到底言えない自分がいざ何を話そうかと資料を作りながらあれこれ考えてみたが、変に見栄を張らずに自分が1年前に知りたかったような具体的な実践内容や失敗談を素直にお伝えして、後半の参加者の皆さんによるフリートークの叩き台にしてもらえれば…という気持ちで当日に臨んだ。

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 この仕事をしていると人前で話すのに慣れていると思われることが多いが、『学び合い』を続けていると人前で5~10分以上話すということがほとんどなくなる。とりあえず思い付いたことを羅列して資料を作成したが、どれくらい時間がかかるのか見通しをほとんど持てないまま始まってしまった。30分以内で終わってしまったらどうしよう…と思っていたが、実際はちょっと後半急いで何とか1時間、という感じだった。稚拙な話を熱心に聴いていただき、大変有り難かった。

 

 その後のフリートークや懇親会で話題になったことについてメモ。

 

『学び合い』のマンネリ化について

 1学期は子どもたちにとって目新しさもあり、教師もとりあえず『学び合い』が浸透し形になることを意識するので多くを求めないが、2学期途中~3学期の頃には停滞ムードが漂いがち。その理由としては「子どもたちにとって目新しさがなくなり、自分たちで授業を進めていくことが実はしんどいことを実感し出す」「教師にとって『学び合い』による集団の成長が見えにくくなる」などが挙げられる。今回の会は実践者の方が多く参加されており、時期的なものもあるのか、この話題が最も盛り上がったかも知れない。

 そのマンネリ化を打開するためには、1時間単位から(小)単元丸ごとの『学び合い』に移行するなど、より抽象度の高い(≒達成がより難しい)課題を設定していくことが有効ではないか?(しかし中学校では受験のことを考えると、受験対策=より具体的でピンポイントな課題が要求されはしないか?)

 

『学び合い』の評価について

 『学び合い』(アクティブ・ラーニング)と評価の難しさは多くの方々が感じておられるようだが、現状の「査定し順列をつけるための評価(=受験のための評価)」から脱却してしかなければならないことは確か。

 

『学び合い』の汎用性について

 ある参加者の方が「いろんな教育関係のセミナーに参加するが、『学び合い』の会が最も実りが大きい」とおっしゃっていたのが印象的だった。それは、『学び合い』の会自体が『学び合い』の考え方で運営されているからに他ならないと思う。つまり、『学び合い』子どものためのものであるにも関わらず、それがそのまま大人でも適応可能だということだ。そういう哲学や理論は『学び合い』以外にないのではないか。

 

 自分が失敗談を中心にお話ししたせいか、「自分と同じように失敗された方のお話を聞いて安心しました」という声を多く伺ったので、所期の目的はある程度達成されたと言える。生徒同様、教師にとっても学校は「失敗できない場所」「失敗したら取り返しが付かない場所」になってしまっているのかも知れない。学校こそ「安心して失敗できる場所」であらねばならないはずなのに…いろいろ突き詰めて考えていけばいくほど、学校そのものの在り方に意識が向かってしまう。そういった考えを持った方々とあれこれお話しすることができ、楽しい1日だった。お世話になり、誠にありがとうございました。

「好きなようにしてください たった一つの『仕事』の原則」楠木健

  

好きなようにしてください―――たった一つの「仕事」の原則
 

 

 昨年読んだ教養書の中でベストだったこの1冊が、また無性に読みたくなったので再読。内容は進学や就職・転職、キャリアについてのお悩み相談に対する回答集。「好きなようにしてください」とは一見無責任な回答のようだが、補足を入れるならば「まずはきちんと理屈で考えて、でも100%理屈だけで答えが出る訳じゃないから、最後の最後はあなたの好きなようにしてください」といったところか。

 再読を機に印象深いフレーズを備忘録的にメモ。

 

僕が問題にしているのは、内実と環境をすり替える愚です。言うまでもないことですが、結果の良し悪しを左右するのは環境ではなく、その人が実際にどういう勉強をしたのか、個人としてどの程度受験勉強の能力があるのかにかかっています。それなのに、進学する高校を選択する時に、よい環境に行くと半ば自動的によい結果が得られる(悪い環境に行くともうそれでよくないことになる)と思い込んでしまう。(p.4)

 進路指導をしていてつとに感じるのは、多くの受験生は「この世のどこかに自分にとってふさわしい『いい学校』があり、その『いい学校』に行くことで『いい生徒』になれる」というストーリーをイメージしている、ということだ。実際に高校側も、「うちの高校は何%が国公立大学に進学していますよ」などと、主に環境的側面しかアピールできないのだから無理もないのかも知れない。そこでよく生徒に話をするのは、「『いい学校』というのは『いい生徒』のいる学校である、だからあなたの通う学校を『いい学校』にしたかったらあなた自身が『いい生徒』になる他ないですよ」ということだ。でも自分の人生を振り返っても、過去に高校や大学を環境で選んできたと言えるので、受験生の気持ちは嫌と言うほど分かる。

 確かに「立場(環境)が人を変える」こともある。しかし、環境は十分条件であって、必要条件ではないということだろう。

 

 一番大切なのは、部下の評価という仕事と正面から向き合うということ。(中略)上司にとっては大変にキツい仕事ですが、ここは手数と時間を惜しんではいけません。

 部下の評価は上司の仕事の中核です。部下を評価できての上司。評価なくして育成なし、です。しかし、相談文から察するに、あなたはその仕事のど真ん中のところがないがしろになっているのではないでしょうか。(p.56)

 上司と部下という関係性とは少し違うが、アクティブ・ラーニングを実践していると、教師の仕事は突き詰めていくと「適切な評価」以外にないのではないか、と思う。適切な評価とはどうあるべきなのか、評価って難しい…と最近特に思っていたけれど、「簡単な評価」というのはそもそも形容矛盾だということだ。その評価ももちろん教師側から一方的に行うのではなく、評価自体も主体的・対話的で深い評価にしていかなければならない必要性を強く感じる。

 

「結婚に重要なことは三つしかない。第一に我慢、第二に忍耐、第三に耐え忍ぶ心」(p.80)

 この金言は、「結婚は困難である」という認識をデフォルトにしましょう、という内田樹先生の考え方と一致する。

 

実際のところ、誰も頼んでいないのです。われわれは(少なくとも平安時代の日本や現在のシリアと比べれば)豊かで自由な社会に暮らしています。根本のところから誰からも頼まれていないし、誰も矯正していない。一定の義務さえ果たせば、自分の自由意思で生きることができる。(p.123)

 この辺りの考え方はアドラー心理学に相通ずるものがある。私もよく、変なこだわりに縛られている生徒に「あなたは○○をしなければならない呪いでもかかってるの?」という声掛けをすることがある(「呪い」の部分を「先祖代々からの言い伝え」に言い換える場合もあり)。

 よく考えたら、「好きなようにしてください」という回答そのものが、アドラー心理学でいうところの「課題の分離」ですね。

 

質量ともに一定水準以上の「努力」を継続できるとすれば、その条件はただ一つ、「本人がそれを努力だと思っていない」、これしかないというのが僕の結論でありまして、これを私的専門用語で無努力主義と言っています。(p.164)

 再読して最も衝撃を受けた部分。その一方で、学校という場所は正に「努力至上主義」。努力を過大評価して努力に邁進する生徒を育てることに躍起になっているが、このある種の根性論的な教育によって、どれだけ個人レベル及び社会レベルで生産性を損ねているのかと考えるとゾッとしてしまう(自省の念も含めて)。

 

 この他にも付箋を貼ったページは数知れず。定期的に読み返したい1冊となった。そして何より、楠木先生の手厳しいながらもウィットとユーモアの滲み出る筆致が素晴らしい。こういう風に文章を操れる人間になりたいものです。

「勉強できる子卑屈化社会」前川ヤスタカ

 

勉強できる子 卑屈化社会

勉強できる子 卑屈化社会

 

  2000年代前半のweb1.0時代の名サイト「Sledge Hammer Web」の運営をされていた前川ヤスタカ氏による教育論。大学時代から前川氏(当時は前川やく氏だった)の文体や視点に多大な影響を受けてきた身として必読の1冊だと楽しみにしていた。

togetter.com

  • 勉強できることがなんだか後ろめたい
  • 勉強できることを隠そうとする
  • 体育できる子はチヤホヤされるのに…
  • 高校などで同質集団の中で埋没すると安心感を覚える
  • 先生からの評価も高くない
  • スクールカーストは比較的低い
  • 学園ドラマなどメディアからもステレオタイプな描き方をされる

Togetterにまとめられている感想からも分かるように、「勉強できる子あるある」が単なる面白あるあるの域を超えてある種のルサンチマンに満ち満ちていることが、この「卑屈化社会」の根深さをよく表している。「こういうもんだ」と思い込んできたれど、よく考えたら勉強できる子どもが卑屈になったり秘匿したりせざるを得ない社会の知的損失は相当なものなのではないだろうか。

日本人が学校の勉強を通じて何を学んできたのか。

これからの日本人が身につけるべき基礎教養はなんなのか。

逆に今の学校の勉強には何が足りないのか。

塾や予備校が産業として成立しているのはなぜなのか。

本来、そういったことを真摯にちゃんとデータを使って詳細に議論すべきだと思うのです。(p.208) 

 という主張は、中室牧子著「『学力』の経済学」と相通ずる部分がある。日本国民全員が学校教育を経験している、しかも義務教育だけでなく中等・高等教育まで受けた人の割合が多いという中で、全員が教育についての個人的感情を声高に叫ぶことが教育を良くすると思っていること、さらにそれが100%の善意から行われていることが、日本の教育を取り巻く最大の問題であるということだ。そんな本質がこの「勉強できる子あるある」から見えてくる。

 

 TVウォッチャーでもある前川氏は、テレビなどのメディアの功罪について1つの章を割いて書かれており、「紋切り型の描き方をするテレビマンには高学歴の人が多い」と指摘されている。同じように考えると、教師自身も(テレビマンほどでないにせよ)高学歴の人が多く、しかもそういった(勉強できる子が卑屈にならざるを得ないような)学校文化の中でうまく立ち回ってきたというか、比較的成功体験をしてきた人が多いように思う。したがって、そういった個人的背景を持つ教師によって、学校という場所での「勉強できる子卑屈化文化」が再生産されているという現実もあるのではないか。

 そういう意味で、

学校の勉強が学生時代にダメでも後から追いつける手段があること。

学校の勉強の進みが遅くともそれが就職などで不利にならないこと。

学校の勉強以外の多種多様な能力も教育上評価すること。

学校の勉強の中でも得意分野を伸ばしたい、というようなニーズにも応えること。

人生のどんな時点からでも学生になり、やり直せること。(p.219)

 という前川氏の提言は、現場に教育に携わる者として身につまされる。現場の末端の立場の中でできることは限られているかも知れないが、真の意味での「文武両道」(=文や武をはじめとする多様な価値を等しく認め合うこと)の実現を目指した実践をしなければいけないと考えた。

「困難な結婚」内田樹

 

困難な結婚

困難な結婚

 

 年末に一度読んだのだが、あまりにも面白かったので、年の瀬に次男が誕生したことをきっかけに改めて精読した。

 「困難な成熟」に続く、ウチダ式「困難な○○」第2弾。この「困難な○○」というタイトルは、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス著「Difficile Liberté」の日本語訳「困難な自由」から取られている。「困難な自由」のまえがきにあるように、フランス語では本来「形容詞+名詞」の語順を取るので、「Difficile Liberté」という表現は本来おかしいのであるが、「白い雪=La blanche neige」のように、名詞のうちに含まれる性質を表す付加形容詞の場合は、形容詞が名詞の前に来る。つまり、「困難な結婚」という表現には、結婚はそもそも困難なものであり、「容易な結婚」というものは存在しない、というニュアンスが含まれている。そして、この含意こそがこの本の全てと言ってしまっていい。

結婚というのは、「自分には理解も共感も絶した他者」と共に生活することです。「おのれの賢しらの及ばない境地」に対する敬意と好奇心がなければ、なかなか継続することの難しい試練です。(p.101) 

  2人の子供の親になって強く感じたのは、我が子でも「他者」である、ということだ。血を分けた我が子ですら、何を考えているかよく分からないし、イラッとしてしまうことだってよくあるし、もちろんコントロールするなんて絶対に無理な話だ。でも、そんな他者に過ぎないのに、「この子のためなら命を捨てられる」と思えてしまうという、不思議な感覚が存在するのだということを、親という立場になって初めて知った。

 我が子ですらそうであるのに、ましてや教師が人様の子どもに対して「あの子はこういう子だから」と決めつけたり、コントロール下に置こうとしたりするのは、あまりにも「敬意と好奇心」を欠いた行為に思えてしまう。

 

 その他、内田先生の金言を備忘録的にメモ。

目の前にいる人よりももっとましな相手がいるんじゃないか、ここで手を打ったらあとで後悔するんじゃないか……というのは「自分はこんな程度の人間じゃない」という自負の裏返しです。今の自分が受けている社会的評価はこの程度だけど、ほんとうはこんなもんじゃない。ほんとうはもっとすごいんだという自己評価と外部評価の「ずれ」が「こんな相手じゃ自分に釣り合わない」という言葉を言わせている。(p.24)

「仕事がつらいのでじっと我慢しているのだが、仕事をさせるとたいへん有能である」という人にあったことがありますか。僕はありません。仕事の90%くらいは他者とのコミュニケーションです。適切なメッセージのやりとりをすることを「仕事をする」と言うのです。コミュニケーションが適切にできない人に仕事がてきぱきとこなせるはずがありません。(p.48)  

葛藤というのは「喉にささった小骨」のようなものです。いつも気になる。でも、人間の身体はその小骨を溶かす消化液を絶えず分泌していますから、気がつくと小骨は消えてなくなっている。小骨は消化液の分泌を促進するひとつのきっかけでもあったということです。(p.52)

誰にも制約されない生き方って、言い換えれば「誰からも頼みにされない生き方」ということですよね。あなたを頼り、「あなたがいないと生きてゆけないんです」とすがりつく人が一人もいない生き方をするということです。(中略)そういう人物を目指して自己造形したいと願う人って、ふつういないと思います。僕たちは「人から頼られるような人」になろうと思って、子どもの頃から努力してきたんじゃないですか?(中略)そういうふうに「頼られる」人間であることが、社会的な成熟度や能力の指標であるのではないですか?(p.142-143)

 

 全体的に割とフレンドリーなお悩み相談の形式で構成されているが、最後の最後、福沢諭吉の国家論と結婚を対比しながら、内田先生が突如厳しい表現をされた言葉が、一番印象に残った。

結婚してるのに他の人を好きになっちゃったのですけど、どうしましょうというような寝ぼけた質問をしてくる人に僕が申し上げたいのは、そういう薄っぺらなことを平気で口にできるような人は、もともと結婚生活向きじゃないということです。(中略)別に結婚しなくてもいいじゃないですか。(中略)誰からも文句言われない気楽な生き方をすればいいじゃないですか。なんで、「その上」 結婚までしたいんですか?僕にはそれがわからない。(p.262)

 内田先生から「成熟せよ」「大人になりなさい」と喝破されているようで、身につまされるながらも痛快なラストだった。